上久下村営上滝発電所に入らせてもらった日
あの発電所の下から
恐竜が発掘されるなんて

大野 昶さん (旧上久下村営上滝発電所記念館 説明員)

 

1935(昭和10)年、上滝生まれ。小学校教師を続け、上久下小学校にもつとめる。現在は、旧上久下村営上滝発電所記念館に月に数日常駐し、来館者への案内役として活動中。

篠山川で泳ぎ、村で遊んだ子ども時代

いま、目の前に流れている篠山川は、昔は「大蜘蛛川(おおくもかわ)」といいました。

ずっと川の上流に行くと篠山の大芋(おくも)というところがありますわね。
そこが源流だからでしょうね。
「大蜘蛛川」ではなく、本当は「大芋(おくも)川」というのかもしれません。

上久下小学校の校歌でも「大くも」と呼び名で歌われていますね。

上久下小学校 校歌 <昭和8(1933)年11月3日校歌制定>

1)ゆかりある 里においたち
たゆみなく 朝な夕なに
いや高き 望みを持ちて
はげみゆく 学びの園よ

2)大くもの 豊かに清き
川なみの うつる窓べに
友がきと 睦いそしみ
きたえゆく 学びの園よ

3)ひかりある 歴史うけつぎ
進みゆく 世にさきがけて
川代に 匂うさくらと
咲きいでん 学びの園よ

 

-篠山のあのあたりには、「蜘蛛」が出てくる民話があるんですよ。
そして篠山では、「雲」のついた地名<雲部、村雲、東雲(しののめ)>が多いんですよね。
そんな「大蜘蛛川」で、子どもの頃は泳いだり遊んでいらっしゃったんですね。

僕は一人っ子で、大事に大事に育てられたんです。
だから正直、外遊びはあまり得意じゃなかったんですね。

木登りしていても危ない危ない言って降ろされてしまうし、父が魚釣りに興味はなかったから、連れて行ってもらったこともないし。
「泳いだ」と気軽にいま言ってますけど、この川は深いですよ。
流れは割合、淀んでいましたけどね、いちばん深いところは4メートルくらいありましたかね。
今のプールとは違うもんね。だからおぼれたこともあるし。

川床がね、ツルツル、ぬるぬるの岩なんですよ。大丈夫だと思って立ってたら…足が滑ってドボン!となったところで、たまたま助けられたこともありました。

もっともっと小さい頃は、地元の先輩と一緒に川で遊びました。

今でいう中学生くらいの先輩たちやね。
その先輩たちが流木をどこからか拾ってくるんですね。
「遊ばしたる」「川の向こうへ連れていってやるから、この流木につかまれ」って言うんですよ。
そしてその流木ごと“えっさおいさ”と運んで行ってもらって、いちばん深いところに来たら、先輩がつるん!と丸太をまわすんです(笑)。
そしてまたつかまらせてもらって…と。
今ならあんなことしていたら親が何か言いに来ますわな。

でも、この川は僕らが泳いでいた時はもっときれいだったんですよ。
やっぱり生活様式が変わったこともあるんでしょうかね。いまここは昔ほどお魚はいなくなりましたね。
昔は雑魚もたくさんいました。ナマズやウナギもいました。
(僕自身は親に)危ない危ないと言われていたから、魚とりはしていなんですけど、はえ縄漁法で取っていた友だちはいましたね。
そういう川遊びをしているところへウナギの稚魚が上がってきていました。
15cmくらいの稚魚ですよ。僕ができるのは蕗の葉を取ってきて掴んで遊ぶことくらいです。

 

うまれた時分に支那事変<1937年(昭和12年)>があって、小学上がる前に真珠湾攻撃<1941(昭和16)年12月>があって…
その時分からずっと戦争の時期の中で大きくなったからね。
小学1年、昭和17年4月に小学校入りましたけど、昭和20年にちょうど僕が小学4年生の時に戦争が終わってね。
この辺は焼け野原にはなりませんでしたけど、品物はなかったね。
オヤツもなかったし。
だから大豆を煎ったものとか、御餅であられを作ったりしてオヤツに食べてましたね。
干し柿作るときに剥く皮も束にして軒下にぶら下げてね。
ほんで学校から帰ったら、乾いて甘くなった皮をぐっと引っ張ってちぎってポケットに入れて、そのまま外に遊びに行ったりね。
もちろん今でも干し柿の皮をお漬物に入れたりね、しますけど。
今、うちの家内はピーラーで剥きますね。そうしたら短い皮しかできませんやろ。
ほんとうはぐるーぐるーとつなげて剥いて。そうしたら長い皮ができますけどね。
よく食べたな、と。今も同窓会に行ったらそんなオヤツの話をするんですよ。何もなかったもんね。

-川代は昔、舟遊びをしていたと聞いたことがあるんですが。

もっと(川代公園の)桜の木が若かった時分ですね。
「寿美礼(すみれ)」さんからもう少し先のあたりは桜の季節、とても賑やかだったんですよ。
子どものときはね、出店が出ていましたしね、それにお花見の時だけ料理をつくりよったんかな。
父の古い写真を見ていたら、その時は仲居さんが来てお給仕もしてましたね。
地面にムシロ引いたりして宴会している人もいたし。堰堤の上の方に少し水がたまっているでしょう。
そこに桜の季節にだけボートを浮かべて遊んでいたんですよ。

子どもの頃の電力事情

-大野さんが子どものときはもう村に電気が通っていたということですけど、それ以前は灯りは何で灯していたんでしょう?

大正12年の前までは、ランプ生活をしていたようですね。
上久下(上久下小学校区)の500戸ほどが。ランプの油は石油でしょうね。ホヤ拭きしていたと言っていましたから。

-大野さんの子どもの時はランプを使っていらっしゃいましたか?

いやいや、もうね、ないですね。この発電所の出力が70kW/hなんですね。それでもその時分は冷蔵庫もなかったし、ただの照明だけですね。
大体が平屋の一軒家でしたからね。うちの家でも平屋の茅葺き屋根でした。家の分は刈っておいて家の倉庫に立てかけて乾燥させておいたんやね。毎年葺き替えるわけでもないから、何十年かおきに。片方を葺いて、しばらくしたらまたもう片方を葺いていましたね。
まぁ僕の所はね。平屋で四つ間取り、田の字間取りでしたから。大きなお家は違いますけれども、あの時はうちは通り土間はなくて変則でしたけどね。うちで電球が3つくらいですからね。だから500戸がまだまかなえたんでしょうね。

-お部屋の機能はそれぞれあったんですね。

そうですよ。例えばここに玄関があって、土間、土間の奥に炊事場でかまどと流しがある。左手が座敷になります。入ったところがクチノマ(客間)。こちらがオクノマ(客間兼仏間)。炊事場のとなりが居間で、その奥が寝室。これが一般的な間取りですね。電灯は客間には一灯ずつで、居間と寝室には兼用の一灯がある。ここの電灯には長いコードがついていました。

-街灯なんてものはないですね。

ないですね。出歩くときはライトをもって。その時分の生活で印象的だったのはね、テレビとかそれぞれの家で楽しむものはなかった。ラジオとかはありましたけど。だから隣近所がものすごく親密でしたね。あのね、床机(しょうぎ・脚のついた台)って知ってます?うちの地域のはね、畳一枚ほど広さのものですけどね。そこにムシロを引いて豆干したりして。夏には蚊取り線香を灯して、隣のおじさんやらとお話ししたり。冬はやぐらこたつに集まってね。その中に足突っ込んでうだうだ世間話をしてましたね(笑)。

水力を使った線香工場、米つき水車小屋の存在

-いまこのお話しをお聞きしている施設は、水力を使って発電する発電所でしたが、同じ水力を使って、違う場所で水車をまわしていたというお話しもお聞きしました。

この道の向こうに溝が流れているんですよね。その水があるので。すぐそこ(発電所の西横)に小屋が立っていました。
僕が良く覚えているのは、線香工場ですね。水車で杉の葉を「とんとん」と音を立てながら粉にして、線香の材料を作っていたんですね。ある個人の人がこれでお金を儲けようと思って作ったんでしょうな。この集落、杉葉はどこにでもあった。やっぱりいまの線香は香料を入れているんでしょうね。杉葉の粉というのは、そんなにいい匂いのするもんでもないですからね。上久下校区では線香工場はここだけだったかもしれません。

-発電所よりも新しいんでしょうか?

後ですね。ここに発電所があるんだから、そこにモーターを付ければよいのに、わざわざ水車を作ってね。
もう一軒、集落の奥に水車小屋があって、上滝集落のお米つき場(精米所)がありました。玄米を持って行ってお米をつくんですね。水車が廻ってね。水車の軸から角のようなものが出ていて、3つか4つか臼があってコンコンコンコンつくんです。
でもね、戦争が終わる前の昭和20年の3月か4月頃には、都会から疎開してきた人が住宅にして住んでいましたね。その時に水車の小屋もやめて、米搗きの仕事もできなくなった。その時分はもう自分の家にも足踏みのものがあったからね。
ただ、水車は他の場所にもあったかもしれませんね。今みたいに遠くまでうろうろしませんもん。遠足で行くくらいで。だから分かりませんけどね。

-線香工場も戦後になくなってしまったんでしょうか。

そこはね、火事で燃えてしまった。これは余談になりますが、私たちの住んでいる上滝で8軒も焼けた大火がありましてね。(大火になると)風が起こって藁屋根の破風のところに火が吸い込まれるそうですね。火のついた藁の束が飛ぶんですよ。その飛び火で拡がったんですよ。

発電所の中に入らせてもらう

この発電所が出来たのが大正12年。ですから、僕が生まれるずっと前からありますね。僕が小学校にあがって、篠山川で泳いで遊んでいる間は、発電所も動いていたんですね。昭和18年までが村営の発電所でした。終戦の前に関西電力(当時 関西配電)に移管…というか売ってしまったんですね。発電所をつくった当時は11~12万円(今のお金にすると11~12億円)くらいかかったと聞いています。でも売る時は9万円で売却したそうですよ。村営から関西配電になった後も、相変わらず上久下校区に住んでいられる方が発電所で働いていましたね。

 

-当番で、夜の間もずっと24時間、発電所の番をしていらっしゃったんですね。

そうですね。ちょうどこの上が宿直室でしたね。そしてちょうどそこ(1階階段下入口近くのボックス)に事務所がありますね。そこで僕らからしたらおじさんがひとりでしたかね。毎日交代で来てはったんです。タービンや発電機の音はそれほどしていなかった気がしますね。使っている水は農業用水でした。水を取っていたのは、「寿美礼」のまだ向こうからですね。この川には農業用の堰堤が校区内に5つあるんです。いちばん上流にあったのが上滝の堰堤です。
これ(調整ハンドル)がありますね。回転ムラが起こるでしょ。微調整をずっと手動でやっていたんですね。電気が明るくなったり暗くなったりしたらあかんでしょ。それがだんだん改良されて油圧で操作できるようになったんや、と。この間、聞きました。それは僕は記憶にない。
ここにね、水槽がありますね。電気風呂ですねん。後になってからできたのかな。焚口がありませんやろ、でも電気はありますやろ。発電所の中も、その頃は「部外者でもたまに入れる、貴重な遊び場」のひとつだったんでしょうね。

子どもの頃から遊んでいた川から、恐竜化石が出た!

-そんな思い出深い発電所の近くで「恐竜化石が発見された」と知った時はどんなお気持ちでしたか?

とにかく小学生の時から中学生の時までここ(篠山川)で泳いでましたからね。昔、子どもの時分に登ったり降りたりして遊んでいた崖…そこから恐竜が見つかったと聞いてね。2007年のお正月に恐竜化石発見の記者発表がありましたけれど、それ聞いた時に感動というか、「え、あんなところから?」という驚きですね。いままで恐竜の化石がここから発掘されるなんて考えもしませんもんね。
記者発表は1月3日だったんですけれども、10日にここの近くで恵比須祭りがあるんですよ。だから新聞に出ていた「発電所の下」ってどこから出たんやいな、と見に来たんです。その時にはもう立ち入り禁止でしたよ。
2007年の1月から岩の上の部分を取り除いて発掘が始まったら、それはもう、いてもたってもいられなくなって、発掘のボランティアに参加しましたよ。周りを取り除いた岩をハンマーでポンポンと叩いて、「化石がないか探してください」と三枝先生(三枝春生 兵庫県立人と自然の博物館主任研究員、兵庫県立大学准教授)に言われるからやるんだけども、恐竜のこと全く知らないんだから必死でした。
その時にね、20人ほどがボランティアで来ていて、中でも下滝生まれの同級生4人も中にいましたからね。とはいえ、実際に石割しても、やたら化石はたくさん出えへんのですよ。恐竜の化石は現場に残っているけれども、(その化石の)周りからはそんなに出ないんです。三枝先生によると「休憩は取りません。適当に休んでおいてください」と。そしたら、20人もいるひとたちが「出た!」「こっちも出た!」とかいうんですよ。まだ僕は出てない。やめられなくなりますわね。絶対に休まれへん(笑)。午前中おんなじ姿勢でポンポン。なかなか大変でした。それで僕は残念だったけれども、第2次調査からは発掘ボランティアはリタイアしました。

「発掘が休みの間に上滝に来た人を案内しようか」
自主的に始まったボランティアガイド

発掘は冬の間ですから、春からはずっと何もない。でも記者発表があってからは、いろんな人たちがどんどんこの現場に見学に来られましたから、「発掘ボランティアで来てたもんが、見学に来られた人に話してはどうか」となったんですね。その頃は「元気村かみくげ<平成21(2009)年7月オープン>」もなかったし、それに代わる仕組みや組織もなかった。好きで好きでボランティアやったものたちだけでね、とにかくここで発掘ボランティアの仕事がない時にやり始めたんです。
僕は恐竜についてはずぶの素人ですから、来られた方にお話しする内容も、三枝先生が話しされたことをちょっとメモしておいてとか、あとは新聞発表されたものをコピーしておいてとかね。少しずつ勉強したり書き出しておいたものでした。でもこれは僕の感想ですけど、その当時ここに見学に来られる方は、僕なんかより恐竜に詳しい(笑)。そして初めて来られて素人っぽい人はものすごい感動して帰られるわけですけれども、マニアの方は何度も来られるわけですよね。子どもさんがきたときもね。子どもの方がよく知っとる。それで僕、どんどん自信がなくなってね。またリタイアしました(笑)。でもまぁ、やっぱりなんか役に立ちたいなと思ってね。その時分に「元気村かみくげ」が出来たんでね。それでまたガイドに登録しましてね。
最近は来る方の“質”が変わってね。この頃は「初めて来るんです」という人が多いね。「前に来られましたか」と。そう思うとこの頃、僕もそういうことを聞けるようになったね(笑)。「やぁ、初めてです」「ちーたんの館には行かれましたか」「いや、まだです」「恐竜のことを知りたいのであればあちらへ行かれた方が詳しいですよ。ここは現場です」と、そういう会話ができるようになりました。来た人によって案内を変えていますね。小学生なんか来たら「詳しいやろ」と、逆に教えてもらったりね。
ずいぶん前の話しですけれど、たまたま来られた方が-僕、いまでも忘れられない話ですけどね-「そしたら、その恐竜はこの川の水を飲みに来て死んだんですか!」と言わはったんです。その質問が印象に残りましたね(笑)。そういうイメージで来られる人もいらっしゃるんだな、と。「いや違いますよ。日本も大陸と一緒になっていて、大陸と日本がその後に離れてきてここにあるんですよ」と話したんだと思うんですよ。そんな話しても、すぐにはピンとこないでしょうね。

「僕がふれているのは1億数千万年前の石なんだ!」
というロマンを感じてほしい

-大野さんなりに、施設に来られた方に「まず初めにこんなこと話したいな」ということはおありなんですか?

この施設で今ガイドとして働いているのは8人です。わたしは自分の生活経験とか、そういうようなことをお話ししていますけど、8人いたら8通りのガイドしていると思うんです。そしてお互いに何を話しているかは知らないんです。
来て下さった方には、僕が発掘ボランティアをした時に感じたこと…『僕がこの手に触れているこれは、1億何千万年前の石なんだ!』という、感動といいますか、ロマンですね。そういうものを感じて帰ってほしい。僕はどんな名前の恐竜がいるというのは今でも分からない。でも恐竜が1億何千万年前にいとったんや、とことを…じっとイメージするだけでも、本当におもしろい。その一言に尽きますね。
ガイドをし始めて思うのはね、「出逢いには『濃淡』がある」ということなんです。人はいろんな時、いろんな場所でいろんな人との『出逢い』を重ねて人生を送りますね。化石ともその『出逢い』のひとつでしょうし、現場に来られて僕がガイドさせてもらう人ともそうでしょう。僕はその『出逢い』をできるならば“濃い”ものにしたいんです。だからこそ少しずつだけれど勉強もすると、来られたひとりひとりの方に合わせながら、僕自身が体感した感動やロマンを伝えていきたいと思っています。

-私たちがこの前この施設に伺ったときに、展示もあるけれどもまずは外の景色に目を向けさせてくださったんですよ。「その地層をちょっと見てください。せっかくだからここでしか見られないものを見て帰ってね」と言って。「ここがあそこの地層とつながっているでしょう」とか。普通だったら展示物に眼がいきがちな私たちを誘導してくださいました。大野さんがそういう心もちでガイドをなさっているのが、すごく伝わりました。

(教師時代から)篠山川のこのあたりの地層はきれいな、とは思っていましたね。僕は教師になって母校(上久下小学校)にも勤めていましたし、その時もきれいだよ、と子どもたちを遊びに来させていましたから。僕、その当時は地層の何億年とかいう知識はなんにもなくて。ただこう、積もり積もってこうなって、これが地層やで、と。はっきりした根拠、学術的な知識はなかったけれども、ないなりに子どもたちに説明していました。
最近は「地層を見ると地球の年齢も分かるよ」という説明もしていますね。「自分の人生、あそこで見たらどんなんかと言ったらね、髪の毛ほどの厚みもありませんね。すごいなぁと思いますね」と。「なんてちっぽけなんでしょうねぇ」と、思わず自分でも言ってしまいます。
本当に…じっと、思うね。恐竜が見つかったおかげでいろんな方が来て下さって、これ(発電所)も前はぼろぼろだったんですよ。たぶん、ここの機械を撤収するときに上に釣り上げたんかなと思うんですよ。想像ですけれども。かび臭くておばけ屋敷みたいだったんですけどね。きれいになりました。恐竜のおかげですね。
上久下というのは耕地が少ないですから、だから「半勤半農」というんですか。昔は阪神間や三田まで働きに出て、休みの日には百姓をするという暮らしをしていた人も多かったですよ。
恐竜の卵の発見について記者発表をされたとき(平成28(2016)年1月8日)に常岡さん(常岡芳朗さん 上久下地域自治協議会)が話していましたが、今、ガイドをしているのは高齢者ばかり。これからは若い人にも関わってほしいね。若い人の考えでね。まずは楽しんでくれたらいいな、と思っています。

?インタビュアーと最後に記念撮影!