数百年もの間、神々への祈りを聴いてきた岩々
江戸時代の能楽師は
こういう感覚だったんだ

山口 耕道さん (大蔵流 狂言方)

多紀町(現:篠山市)生まれ。サラリーマン生活を5年ほど送ったのち、株式会社丹中(篠山市河原町に位置する骨董商)に勤務。骨董にまつわる勉強とする中で、春日神社の能舞台に初めて出会う。25歳から大蔵流狂言方の安東伸元氏に師事。その後、骨董商の独立を経て自身も狂言方として活動を始める。現在は、大蔵流狂言方として全国の能舞台で演じると共に、「子ども狂言(篠山市)」など、子どもを対象にした狂言の指導など次世代の育成にも力を入れている。

 

はじめの豆知識
「能楽」と春日神社能舞台(篠山市)についてまとめています。本インタビューを読む前の予備知識として、または読んだあとの補足としてご活用ください。

  • 「能楽」の成り立ち

    ■「猿楽」から、祈りのための「呪師猿楽」へ

    • 能と狂言は、猿楽(さるがく)と呼ばれていた芸能から分化し、発展したものと言われている。その猿楽の源流をたずねると、奈良時代にはすでに日本に渡来していた唐散楽(中国唐代の正楽に対し、曲芸・奇芸・歌舞などを含む俗間の雑技のこと)にさかのぼる。
    • 古くは天平勝宝4(752)年の東大寺大仏の完成に伴う開眼供養において唐散楽が演じられた記録が残り、また、平安時代においても宮中行事で近衛府の官人による「散楽(猿楽)」が行われていた記録がある。
    • 10世紀末になると、修正会(しゅうしょうえ)・修二会(しゅうにえ)といった寺院の法会の中で「呪師(しゅし)」という猿楽の演目が行われるようになった。本来の“呪師”は、修正会・修二会(国家の安穏や五穀豊穣を祈る寺院の大法会)を勤める僧の一役の名称だが、その法会の“呪師”の代行として、“呪師”の所作が専門の芸能者(猿楽者)の手に渡り芸能化したものを「呪師(呪師猿楽)」と呼ぶようになった(~13世紀ころまで)。
    • 13世紀後半には、猿楽座が結成され、社寺の神事・法会に参勤する一方で、郷村への進出もはかられた。

    ■猿楽の「劇」化、そして観阿弥・世阿弥の登場

    • 貞和5(1349)年、南都・春日若宮社の臨時祭で演じられた猿楽が、『劇形態の猿楽』の最初の上演記録である。「田楽の能(神職によって演じられたもの)」と共に、専業の役者から長時間の稽古を経て習得した本格的な劇だったと伝えられている。
    • 以後、観阿弥(1333―1384)と世阿弥(1363?-1443?)の親子が足利将軍家の強力な後援を得ながら、「能楽」の基礎を築いた(音曲の改革、能作者、能の理論化など)。

    ■武家勢力の「式楽」へ

    • 室町時代には武家勢力が能を「式楽(儀式用に用いられる芸能)」として採用し、パトロンになって保護した。この室町時代には、現行曲のほとんどが成立したといわれている。また、能面の成立と発展/分業制(シテ方、ワキ方、囃子方、狂言方など)の確立/「謡本」の誕生と整備などと共に、現代にも受け継がれる「能楽」の礎が築かれた重要な時代と言えよう。
    • 安土桃山時代には能の「古典芸能」化が進み、江戸時代になると「武家の式楽」として確立され洗練されていく。
  • 「能楽」の演技と舞台

    ■能楽師

    • 演技・歌謡担当の立チ方(シテ方、ワキ方、狂言方)と楽器演奏担当の囃子方(笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方)がいる。
    • シテ方、ワキ方、狂言方、笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方の七つを役籍と呼び、それぞれに複数の流儀がある。現在、流儀の合計は24あり、能楽師の数は約1300人である(能楽協会所属の能楽師数)。
    • 本インタビューでお話しをお聞きしている山口耕道さんは、大蔵流の狂言方として活動されている。

    ■能の上演形式 「五番立」

    • 能の上演形式のひとつに「五番立」がある。「五番立」とは1日の演能に際し、翁・初番目物・二番目物(修羅物)・三番目物(鬘物)・四番目物(雑物)・五番目物(切能)・祝言能(祝言小謡)の順で、翁/五番の能及び合間に狂言/祝言能(祝言謡)を演じること。江戸時代に式楽としての能が位置づけられると、翁付五番立の演能が正式となった。この五番立の番組編成のために、初番目物から五番目物まで「神・男・女・狂・鬼」の五分類が成立した。

    ■能舞台と能楽堂

    • 能と狂言を演じる専用舞台を「能舞台」と呼ぶ。本舞台は京間三間(約6メートル)四方の板張り。「能楽堂」は、能と狂言の上演のために作られた劇場であり、屋根のある能舞台と見所(観客席)を屋内に設ける。
    • 現存最古の能舞台は、西本願寺の北舞台(国宝)であり、元和年中(1615―24)に寄進したと言われている。
    • また、舞台の大きさは設置場所によってさまざまであった。江戸城本丸の表舞台<弘化2年(1845)に再建、安政6年(1859)焼失>が最も格式が高い舞台とされ、能舞台の規範とされた。これが三間四方である。三間四方の広さを持つ野外の能舞台は他に、西本願寺の南舞台、篠山市の春日神社の能舞台<文久元年(1861)に建立>などがある。その数は決して多くはない。
    • 能楽堂は規範に沿い、三間四方で舞台をしつらえているものがほとんどである。

    http://www.janis.or.jp/users/shujim/noubutai.htm より

    ※国宝・重要文化財の能舞台一覧

    【国宝】
    西本願寺北能舞台(京都府京都市、桃山/1581)
    【重要文化財】
    沼名前神社能舞台(広島県福山市鞆町、江戸前期/1615-1660)
    厳島神社能舞台(広島県廿日市市宮島町、江戸中期/1680)
    白山神社能舞台(岩手県平泉町、江戸末期/1853)
    春日神社能舞台(兵庫県篠山市、江戸末期/1861)
    西本願寺南能舞台(京都府京都市、桃山/1573-1614)
    野村碧雲荘 大玄関及び能舞台(京都府京都市、昭和/1928)

  • 春日神社能舞台(篠山市)について

    ■概要

    春日神社は、篠山城の北約350mの地にある。現存する能舞台は、篠山藩主第13代の青山忠良の寄進により、文久元年(1861)に建立されたものである。
    入母屋造の舞台は方形で、南に刎高欄付の脇座、東に後座を設ける。この北には橋掛が北東に延び、北側にある鏡の間及び楽屋に接続する。橋掛は両下造、鏡の間及び楽屋は切妻造で、南側が一室の鏡の間、北側が二階建の楽屋になる。
    春日神社能舞台は、正統的な格式に加え、床下に音響施設の大甕を具備した構成になり、西日本でも屈指の近世能舞台として、高い価値がある。
    造営の経緯、大工、絵師などが明らかとなる歴史史料、舞台用装置などが残ることも重要で、地方における近世芸能文化の展開を知る上で、貴重な遺構といえる。(文化庁ホームページより)

    ■春日神社能舞台の能会

    忠良は、能舞台が建立される以前から本格的な能会を催すほどの能愛好家でした。忠良は江戸で4年間、老中の要職を務めた後、江戸城本丸の能舞台を参考にして能舞台を建てたとされ、建立当時、箱根より西では最も立派な能舞台との評判だったと言われています。この舞台の特徴として舞台の床下に大甕が7つ据えられていることが挙げられます。
    明治になると春日神社能舞台での能会はほとんど催されなくなり、やがて舞台が本来の形で使われることはなりました。そんな中、再び春日神社での能会を復活させようと、地元有志の方々が尽力され、昭和48年(1973)に第1回の篠山春日能が開催されました。それから一度の休止はあったものの、ほぼ毎年開催され、その他にも毎年元旦に「元朝能」として翁が奉納されており、現在は年に二度、春日神社能舞台で能会が開催されています。 (篠山観光協会ホームページより)
    ※河原町には能楽資料館があり、能楽について深く知ることができる。
    能楽資料館:能に関する資料の収集と研究を行ない、全国で最初の能楽専門の資料館として日本における伝統芸能の一拠点となっている。室町時代から江戸時代末期までの能面・狂言面を中心に装束、楽器、古道具、古文書、絵画、写真など能楽全般に関する資料を歴史的・美術工芸的視点で展示。
    ※兵庫県博物館協会ホームページより
    http://www.hyogo-c.ed.jp/~museum-ac/121-160/133.html

    ■春日神社能舞台と篠山層群について

    舞台からみて正面左寄りに見える岩は、篠山層群が露頭したもの。春日神社自体が、篠山層群の上に立つ社である。

大人になってから、狂言の世界へ

-山口さんは篠山市在住のただ一人の能楽師として、さまざまな舞台で活躍されています。今日はその山口さんの視点で、「篠山層群の上に立つ春日神社能舞台」「屋外の能舞台で演じること」について、お聞きしたいと思って参りました。
まずはその前に、篠山(旧多紀町篠見)ご出身の山口さんが、なぜ能楽師(狂言方)を目指されたのか、現在取り組まれている子ども向けのワークショップの取り組み(子ども狂言)など、現在の活動につながるお話をお教えください。

小学校は村雲小学校に通っていました。まちの方(篠山城址周辺)へは自転車で遠乗りできるようになった中学生の頃から、部活(バレーボール)のシューズなんかを買うために行き始めました。ただ、その頃は春日神社の能舞台の存在はもちろん知らなかったです。
能舞台を知ったのは、骨董商へ勤めるようになってから。僕は骨董商へ行く前の5年間、コンクリートの製品をつくる会社で働いていたんです。そして、そのサラリーマン時代に通っていた英会話教室の先生と一緒に旅行をすることになった。すでにあちこち世界を旅して周っていた彼の話が面白くてね。会社を2週間休んで、ミシシッピ川沿いをずっと、ニューオリンズからナッシュビルまで行きましたね。22~23歳くらいの頃でした。その後、会社を辞めたんです。

-骨董商へ行くようになったきっかけは?

ちょうど会社を辞めた頃に、尚古堂や丹波古陶館の先代の中西通(なかにし とおる)さんが声をかけてくださったんです。僕の最初の師匠です。

-それまでの仕事と比べると、世界ががらりと変わりましたね。

そうですね。そちらは、様々な人が訪ねてくる場所でした。骨董屋さん、学者さん、会社の重役で趣味が骨董の人やら…でも僕はその人たちの話についていけなかった。「訪ねてくる人のレベルまで自分をあげていかないと、どうしようもない」と痛感して、まず、たくさん本を読むようになりました。
その当時から実行委員会が春日神社の「春日能」を主催していたんですね。そしてその実行委員会の中心人物が中西さんだった。だから僕も春日能のために能舞台の拭き掃除もしました。それが能を観るようになったきっかけです。狂言が面白いなと思っているときに茂山忠三郞(しげやまちゅうざぶろう)先生の弟子で、安東伸元(あんどうのぶもと)先生に出会いました。その先生に「狂言を教えてほしい」と言って習い始めたのが最初ですね。25歳くらいでしょうか。
その後、30歳で骨董商を独立することになりました。でもその時は本当に狂言が好きになっていたから、御商売(骨董商)と狂言の二足のわらじで生活することにしたんです。週に1回、2回は稽古のために大阪まで通ってました。元々落語も好きだったし、「笑いごと」が好きだった。全くやめようと思ってなかったですね。

-30歳くらいから本格的に狂言をされはじめて、「この道でいけるかな」と思えたのはいつごろでしょうか。

おぼろげながらに、その迷いのようなものが払拭されてなんとはなく「この道で」と思うようになって結婚したんです。43歳です。若い時代からいろいろなことをしてきましたけれど、でもそれがね、ある日突然、すっとつながってどれひとつ無駄がなく「ここがある」と思えた時期があるんですね。それが「迷いなく」なった時期です。

「半農半能」の生活

-「農」が生活のベースにあったからチャレンジできたんでしょうか。

それもあったかもしれません。稽古に通うといっても篠山と大阪、京都は、遠いようで別段そうでもないですしね。かえって「遠いところからきているらしい。熱心な子やな」と言われるくらいです。今、僕自身は、狂言方の仕事に加えて農業もしながら暮らしています。両方ともやめられなくなっていますね。

-そういうライフスタイルの能楽師の方は、日本でも数少ないのではないですか?

いや数は少ないかもしれないけど、趣味は農業というひとは意外といるという印象です。能楽師は、ほとんどの人が専業でやっているけれども、何割かは家業のある人(例えば神社の神官)もいらっしゃるんですよ。狂言方だけでいうと、大蔵流以外も合わせて日本に150人くらいいます。
僕は、盆暮れのあいさつ代わりにあちこち(能楽師や関係者)に黒豆の枝豆を送るんです。今シーズンの分を数えてみたら、各方面へ合計で450軒くらいは送っていました。黒枝豆の旬は10月。能楽も10月は忙しいシーズンです。とにかく10月は1年でいちばん忙しい時期になる。いま、圧倒的に収入は狂言の方が多いですけど、でも費やしてる時間は50:50です(笑)。周りには「半農半能」生活と言ってますよ。

「子ども」から教えられること

-能楽師の方のお仕事はもちろん能楽を舞ったり演じたりすることですが、一方で、様々な人たちに能楽を教えることも大切な役割のひとつですね。山口さんは、篠山で子ども向けの狂言ワークショップをされています。

稽古するのは本当に疲れますけど、子どもは特別です。2009年のアートフェスティバルの時がきっかけで、子ども向けのワークショップをやり始めました。来る子どもの年代をいうと、下は年長さんから上は小学生くらい。子どもたちは本当に素直で、僕の言ったことがわりあいすっと入っていくのが見える。あと僕は子どもの頃に稽古していないから、その疑似体験にもなっていると思います。
いろいろね、役者をやっていると演技に「色(声音)」をつけたくなるんですよ。でも子どもって淡々とやるんです。そうすると観客の人たちはすごく笑うし、いわゆる「くさい」と言われる演技をするより、はるかに気持ちがいい。それは押しつけがないからでしょうね。そういう姿を観ると、僕のような大人のプロの狂言師も「これなんや」「これを基本残して状態でやらなくちゃいけないんだ」と思えるんです。

-技術もあってできるのに、色をつけないのは、難しいですね。

ええ。よく師匠にも言われました。終わって、「まぁな、あれはな、ああいう芝居したくなるんやけどな」と。早い話が、そんなくさい狂言するなということなんですけども。案外ね、そういうときって自分自身が役の中に入り込んでいる時なんですね。これは好みなんでしょうが、観る人によって、印象が違うというのが理想と言われていますね。解釈をお客さんに任せる。それが能楽なんだということらしい。

幕府に許可を得て作られた春日神社の能舞台

-では、山口さんが初めて能楽に出会った春日神社の能舞台についてお聞きしたいと思います。篠山藩と能舞台や能楽の関係についてもお詳しいですね。

春日神社の能舞台は文久元年(1861年)に作られたものです。篠山の古い地図の中にありましたが、それ以前は「四脚堂(しきゃくどう)」、つまり本殿の前に舞堂みたいなものがあったようです。江戸時代は能楽が式楽でしたから、お抱えの能楽師を持つ藩もありました。篠山藩にはお抱えの能楽師の記録はないので、よそから来てもらっていたんでしょう。
だから能楽師というのは、いまでも「侍」だと思っている節があります。僕らの若い時の先輩と言うのは明治生まれの人もいらっしゃいましたから、そういう気骨のようなものがありましたね。(自分たちは見えない)刀を差している、と。侍であるということは「何かがあったら切腹する」という気持ちですよね。

-山口さんとしては、なぜそんな幕末の時期に能舞台を新築しようとしたとお考えですか?

春日神社の能舞台は、明らかに幕府の許可をいただきながら作ったんだということが江戸幕府と篠山藩の往復書簡の存在から分かっています。
建物を造るためには、材料の木を切ってしばらく乾燥させておくでしょう。俗に材木を乾燥させるのに50年はかかるといいますから、準備はしてあった。そして、青山家は元々、松平の旗本ですから、いわば「気概」をみせたのかもしれませんね。春日神社の能舞台は江戸時代では最後に作られた能舞台となりました。つまり、江戸幕府が最後に許可した能舞台でもあるわけですね。

篠山層群と木々と社に囲まれた春日神社の能舞台で
能楽をみる/能楽を演じるということ

-江戸時代はどんな方が観に来られていたんでしょうか。

まずは武家ですね。もちろん市井の人たちも観にきている。資料を見ると、舞台の正面には肩書の高い順に席を用意してあって、その周りに市井の人間を招待している。おそらく、武家の人間は紋付羽織や裃を着て観に行ったと思う。藩の日記に「正面の武家の人間に対しては裃着用のこと」と書いてありました。そして二日ほど後の日記には、「人が集まらないので、家の者(奥さん、子ども)を連れてくるようにというお達しを藩が出した」と書いてある。式楽とはいえ、五番立の全てを観たら一日がかりです。たくさんの人を集めるのが難しかったんでしょうね。

-舞台に立っている演者からお客さまを見た時には、どういう視線の在り様なんでしょうか。お客さまの顔を見るというのとはまた違いますか。

お客さんの表情を観るというということはないですね。ただ演技をしてない時に、自分が舞台上で座っているんですが、その時にお客さんの顔を見るということはあります。遠くをみると言うよりは中空を見ている。あるであろう松の方とか、真正面を見ている。かといって視線を曖昧にするということはない。

-観るとはなしに、何かをきちんと見定めている状況を…表現している。眼で演じているということですかね。

ええ。それは見ていてわかると思います。中空に目線を定めているのと、ただぼやかしているのとでは、芸能として観る時に違う。歌手の人が歌を歌っているときでも、同じでしょうね。

-むかしであれば観客の方が裃を着ていらっしゃる。でも今はTシャツのラフな格好で見られているお客さんもいる。たぶん、そういうときには場の雰囲気や空気は違っていますよね。それは演者にも影響するんでしょうか。

あるとは思います。当然、演者も観る側になる時はあるわけです。観る側というのは自由ですからね。何を観ようと自由なわけです。どんな姿勢で見てもいいし、どこを見てもいい。そう思うと能舞台の能楽者は、いつ、どこから観られようとよいようにしておかなければいけない。隙を作らないというか…そういうことは割に意識しますね。
それに自分が演じていないときは動いてはいけないんです。動くとそこで目線がそこに向かってしまいますから。いちばんよいのは「無視できるもの」。眼に入らない存在でいなければいけない。だから自分の素をできるだけ封印して、自分の存在感をなくすということが大事なんです。

-屋内で演じる場合と屋外でされる場合、何か違いはありますか?

正直、観る方もやる方も屋内の能楽堂の方が楽です。「箱の中(屋内)」というのは、観る側もやる側もおのずと集中力と言うものが生まれるんですけれども、屋外だといろんな音がありますし、(屋外で演じる場合は)集中力が試される。でも僕の感覚からいうとかえって江戸時代の能楽師はこういう感覚だったんだな、と思いますね。

-(春日神社の能舞台の前にあらわれている)篠山層群も、江戸時代からずっと神事である能楽を観続けてきたわけですね。あらためて考えるとすごいことです。現代では屋内にある能楽堂で能楽をされることの方が多いんですね。

そうですね。多いです。屋外はめずらしい。

-屋外の能舞台でも、春日神社のように岩(篠山層群)や、木々に囲まれている環境もあれば、もうちょっと前が開けているところもあると思うんですが、そのような屋外環境は、どの程度芸に影響しますか?

できるだけ影響がないようにと考えますね。薪能なんて、胸元にピンマイクを入れて舞いますから、そういうものは気にしたらダメです。余計なことは考えないようにしています。だからピンマイクがあろうが、早い話がテレビの撮影であればお客さんがいない場合もあるわけですけど、それでも同じように演じなければいけない。どこでやっても変わってはいけない、と師匠はいいますね。

-篠山の春日神社に能舞台が現存していたということは、本当に大きなことですね。

春日神社に能舞台がなければ、僕は狂言をやってない。ほんとうに、不思議です。人は人に影響されて道が決まると良く言いますけど、でもむしろ、まわりの環境や建物や、そういうものって結構ものすごい影響を与えているんじゃないだろうか。まちの佇まい、前を流れている川の大きさ…そういうものが、知らず知らずに人間よりも影響を与えているのかもしれないとも感じます。
家の前に悠々とした大河が流れている場所で生まれ育ったひとは、落ち込んだ時に目の前でみていた川の流れをふと思い出して救われている時ってあると思います。