内外の専門家の英知が結集された「復元模型」の制作プロセス
骨格に“論文”が絡んで、
復元模型になっていく

徳川 広和さん (恐竜・古生物復元模型作家)

1974年福岡生まれ。株式会社Actow代表取締役。子ども時代から粘土で恐竜を作るのが大好き。近畿大学経済学部卒。現在、研究者や博物館からのリクエストで恐竜や古生物の復元模型を作製するほか、ワークショップの企画実施や恐竜関係の書籍の編集アドバイザーなどとして活動中。

気が付いたら
「粘土で恐竜を作るのが好きな自分がいた

-今のお仕事をされるようになったきっかけを教えてください。

子どものころから粘土細工で恐竜を作るのが好きでした。僕の中で「恐竜」と「粘土細工」は、最初からセットなんですよ。「何か(例えば、映画『ジュラシックパーク(1993年)』)を見て衝撃を受けたから『粘土で恐竜を作り始めた』」という記憶はない。あくまで、子どもの時にうちの親が買ってくれた、恐竜と粘土がスタートです。物心ついた時にはもう「恐竜が好きな自分」だったんです。

-いくつくらいから作りはじめていますか?その頃作ったものは、さすがに残っていませんよね。

記憶に残っているだけでも3歳、4歳くらいから作っていた気がしますけど、その頃のものは残っていないですね。残っているのは…小学5年生くらいのときのものでしょうか。たぶん田舎のおじいちゃんの家なんかに残っていると思いますけどね。

-恐竜以外のものも作っていた?

いやぁ…。ほとんど恐竜でしょうね。でも当時使っているのは油粘土ですよね。油粘土って固まらないじゃないですか。小さい頃は、例えば大きい恐竜を作っても、ふにゃっと形が崩れてしまうのが悔しくて、爪楊枝を芯に入れたりしていましたよ。なんだろうな。モノをつくることに対しては、その頃からいろいろ試行錯誤しつつ、考えながらやっていたんでしょうね。
他にはゴジラとか怪獣も好きなので、ちょっと作ったりとか、あとガンプラ(『機動戦士ガンダム(テレビ放送1979年~1980年)』のプラモデル)ブームの頃だったので、そういうもので遊んだりね。外で遊ぶというよりは、ファミコンとガンプラと模型づくりをする、という感じの子ども時代でした。

論文+資料+α で作り上げる復元模型

-恐竜は本で見ると「平面」ですよね。

いや、その当時から「恐竜図鑑」なんかに、海外の博物館に展示してある模型の写真が結出ていたんですよ。僕はどちらかというと模型の写真が好きでしたね。
ただ、模型の写真にしても結局は本に印刷された“平面”なんで、マネしたってなかなか似ないですよね。2次元を3次元にするというのは、子どもにとっては難しい。だから、ずっともやもやしていましたね。「なんで似ないんだろう」と。

-どうやってその「もやもや」を解消していったんでしょう?

もしかしたら、その頃から資料の重要性みたいなものを感じていたのかもしれません。斜め前からみた写真だとパース<パースペクティブ(perspective)の日本語での略称。遠近法、遠近図法のこと>がついて、本来の形のバランスなんかが分からなくなるじゃないですか。でも同じ立体でも真横からの写真があると分かりますよね。あと、同じ写真でも三面図があるとベストじゃないですか。図面と同じでね。資料はできるだけたくさんあった方がいいんです。
いまこういう仕事をしていても「こういう角度の写真が欲しい」とか、具体的に思えるようになった。それはその当時の何かが擦り込まれているからのような気もします。

-資料は模型の写真だけでしたか?骨格標本なんかは、当時はさすがに資料としては見ていなかった…。

そうですね。骨にはときめかなかった(笑)。今はさすがに資料としての重要性が分かってきて、きちんと見ますよ。
恐竜の模型やイラストが好きで、自分でも「作ってみたい」からやっているんですけど、もう少しつっこんで考えると、やっぱり自分の中で「資料がまとまっていく感覚」が楽しいからやっているんだと思うんです。
同じ資料を見て作っても、他の人とは違う結果になることもある。一方で同じくらいの知識量や観察力、資料収集量であれば、同じような立体になる事もあります。その時はお互いに「良く分かってんな」ということになるわけですが。
「恐竜の復元」となった時、復元画も模型も、まず最初によりどころにするのは「骨」なんです。皮の跡、肉の跡も見つかることもありますけど、基本は骨ですよね。そしてその外見を構成しているものが論文であり研究なんですよ。だから僕の中には、骨があって論文が絡んでいく感じが「復元」というイメージがあります。
もちろんその時には研究の進んでいない部位であったり、恐竜の種類もあるんです。その場合は、骨にまきつく紙(論文)、つまり血肉がないわけですよね。そこは自分の経験と想像力、あとは第一線の研究者たちから訊いた意見や推論で補足するわけです。「あそこの論文はあの部分の研究は進んでいないけど、他の動物の例から考えるとこう思うよ」とか、研究者の先生たちに聞ける立場に、いまありがたいことにいるので。
もちろん論文があるのが大前提なんですけど、でもそういう、いろんな人の意見を集約できるというのが、僕の感じている模型作りの醍醐味です。

-徳川さんにとって模型作りは自己表現とは違うんですね。

そうではないですよね。作風と言うのはあるはずなんですけど、結果的に出るものであって、自分で意図している部分は…あまりありません。かっこよく作ろうとか迫力が出るように作ろうというよりは、「こいつがいちばんの魅力はここだな」とか、それぞれの恐竜の特徴を出せるように作り上げていきますね。

-たくさんの資料や情報を元に、その恐竜の長所や特徴…そして「魅力を見出していく」というような、「編集作業」はするわけですね。

ええ、しますね。既存のイラストや模型では「ここを見落としているな」とかね。
ただ論文をつなぎ合わせただけだと、こう…概念的にみると復元模型もガタガタした輪郭になるんですね(まだ研究が進んでいない部位や部分がある)。そこをきれいにならして自然に見せるのも僕の仕事だし、楽しいところかな。

-徳川さんのようなお仕事がないと、私たちのような人間は恐竜の姿を想像できない。

究極、僕は研究者じゃないと難しいなと思う部分もあってですね。基礎的な勉強をしていない自分では研究者の要望がまだまだ汲み取れてないな、とか、研究者の人と話していて思うこともあるんですよ。

-模型を作る上で、必ず研究者の監修が必要ということですよね。でも徳川さんご自身は職人…ではなくて、編集、デザイナーという肩書の方が似合っている気がします。

僕、つい最近まで本の仕事で編集さんと仕事していて「徳川さんの仕事って編集者ですよ」って言われたんですよ。あーそうかな、と思った節もありました。

-編集者でそのアプトプットが本であれば「編集者」になって、「模型」であれば、徳川さんのような人になると。インプットは同じなんですよね。

確かにそうですね。研究を翻訳して出すのが模型の役割ですから。

-油粘土で作っていた時代から、いまを比べると「夢を実現したな」と普通の人は思うけど、でもまさか自分がこうなっているなんて、という思いはありませんか?

(いま仕事にしていることは)目指した姿ではあるんですよね。博物館に飾ってある模型を作るひとになりたいな、と思ってやってきたので。でも「予想外」ですね。自分が思っていた世界よりはもっと面白いというか…。最初は博物館や先生からオファーがあって、作る、という流れを想像していたんですけど、でも実際は作品を納めるまでのプロセスが面白かったし、納めてから生まれるの人の繋がり等の展開も面白かった。これは意外な発見でした。

「復元模型」を仕事にするまで

小学校、中学校、高校と…その間、ずっとものは作ってましたね。
大学は…古生物は一回やろうとおもって、教育系の単科大学に入ったんです。今から思うと自分が甘かったと思うんですけど、研究者になるのは予想よりもずっと大変だなぁ、という事、また自分があまり研究に向いていない、という事に気付いて、2年で辞めてしまいました。やっぱり自分は研究じゃなくて「模型を作りたい人」だった、と確認したんですね。そして、結局もう一回受験勉強をして、次は総合大学に入りました。沢山の講義の中から興味のあるものを選んで授業を受けるっていう講義スタイルに憧れがあったんでしょうね。最初が単科大学だったがゆえに。入った大学が近畿大学経済学部だったんです。

-徳川さんご自身がひとつのことを突き詰めてやっていこうというよりは、「いろいろな情報を自分の中にぎゅーーっと入れて、編集して出す」という方が向いているということですかね。だから単科大学でひとつのことをぐぐっと深く掘り下げて勉強するよりは、総合大学でいろいろな授業を受ける方が性に合っていた。

そうですね。本当にそうですね。恐竜でも研究だけじゃなくて、例えば丹波だったら「それに関わる人の想い」とか、そういう目に見えない情報も復元模型を作る上では大事ですしね。そう考えると、おっしゃったように、広く(情報を)集めてまとめるタイプですかね。

-ただ、骨格はすごく勉強されたのだと思います。それとは別に立体造形に関しては完全に独学なんですね。

美術は独学ですし、解剖学も独学です。もちろん今からやりたいという人には「そういうことを大学等で基礎からしっかり勉強した方が早道だからね」とは言っているんですけど、ただ、経済学の勉強は意外に役に立ったなと思いますね。
例えば統計学の数式も勉強するし、世の中をコスト的に見る視点も勉強する。僕は元々、あまり数字が好きではなくて、最初の受験勉強の時も、最低限しかやってなかったんです。大学でも経済史は履修するけど…みたいなタイプで、数学的な講義はあまり履修していなかった。でも大学で統計学等、数学が必要な勉強を少しやったおかげで恐竜関係でも学会の発表はグラフ等の意味が何となく分かるんです。何をこの論文のグラフはいわんとしているかはわかるんですよ。(だから経済学部に)行っておいてよかったな、と。他にいうと、一応、会社も立ち上げて経営していますので、民法や商法も役に立ちますよね、起業や経営には。

-経済の学部を出て、その後は…

大学行っているくらいから、ゴジラとかガメラとかフィギュアの原型師としての仕事はしていたんですよ。ただ、原型師の仕事も先が分からない仕事でもあって。
そんなとき歯科技工士免許を取ったらどうかと言われましてね。あれは国家資格だし、物を作る仕事でもある。自分も経済的なベースがひとつできると思って、資格を取ることにしたんです。
ただ、さっきも言った通り美術を勉強していたわけではなかったんで、実際に仕事し始めると、モノをつくる時の「意識」が、これまでとは変わりましたね。納期がフィギュアの仕事に比べて短時間で来る。毎日のノルマもある。あと、先輩の技工士さんがいらっしゃって、その方の仕事ぶりが職人肌だったんです。それがすごい自分にとっては、「モノをつくってお金をもらうってこういうことなんだ」って影響を受けました。いちばん印象的だったのは、小さなものをひとつ作って完成すると、かならず机の上を掃除するんですね。僕のイメージだったら、小さいものを作ったら、次々作ればいいじゃない、という感じだったんですけど…いまでもそれは僕もやるんですよ。

-リセットするというか。新たに向き合う、という感じですね。

それは歯科技工士をやっている間に学びましたね。

-いろいろなところに学びがあるんですね。何年か実務をされた。

6年くらいですかね。そしてどうしようかな、と思っていた時に、恐竜の仕事が忙しくなってきて。2足のわらじも厳しくなってきました。博物館からの復元模型依頼であったり、ですね。いっぱいはないんですが、そっちに時間が取られるようになってきて。

学会で模型の「査読」を受ける

-復元模型を作るための資料収集という観点から言えば、論文を読むだけではなく、海外の学会にも行かれていますね。英語も勉強されたんですね。

英語はもともと全くダメだったんです。大学生の頃(1998年~99年ごろ)かな。インターネットが普及して、ホームページを作ろうと。どうせなら海外の人に見せたいというのもあって。そこから地味に英語を勉強し始めていました。受験勉強し直した時に、中学の教科書からやりましたし、2つ目の大学の時は英語の授業は毎年取っていました。「恐竜」をやる以上、いる、と分かっていたから。受験で勉強もやり直したしいい機会かなと。
2006年に丹波竜が(丹波市山南町の現場から)発掘されて、小田さん(小田隆 画家、イラストレーター。古生物の復元画なども得意とする)のブログをみていると、2005年にアメリカの学会に行ったという記事が出ていて、それは自分が雑誌とかでみていた憧れの学会だったんですよ。その当時は僕、日本の学会にも行ったことなかったんで。

-ここ10年くらいなんですね。

だから小田さんに「この学会に行きたかったんですよ」と言ったら「じゃあ来年行こうよ」と。「いや、僕パスポート持っていないんですよ」と。そこからですよ。飛行機の手配もしてやるから、パスポート取ってこいよと。それで連れていってもらう以上、ご迷惑はかけられないなと思ったんで、とりあえず小田さん並みに喋れるようにしておこうと勉強しました。だからちょうど1年前ですよね。タイピングソフトとか、NHKの(テレビ)英会話とかで、やって行ったんですよ。
結果的に…意外に役に立たなかったんですよ。専門用語もそうだんですけど、度胸もないし。ただ、作品を見せると分かってくれるんですよ。お前、ここはだれだれの説であの論文から参照したんだろうとか。こっちからしたら「そうそう!」ですよ。もうひとつは、意外に日本の怪獣マニアも多くて。そこだったら語れる!みたいな。僕自身が原型師をやっていたり、友だちにゴジラのスタッフ経験者がいたり。研究者から見たら逆に「日本から本物のマニアが来た」、というか。その話をしたら向こうも「おー」ということですね。2~3年はゴジラネタでやりながら、友だち作って、そのうち英語の勉強つづけて徐々にできるようになってきて。最初は学会発表のタイトルくらいは判っておこうと、出発の1か月前から地道に翻訳して行っていましたけど、今ではある程度ならその場で読めますから。
(専門用語の英語については)例えば歯の部位の向き等の解剖学的な用語の基礎については、歯科技工士の時に習っているんですよね。だから役に立ちました。
今は大体の研究者とは何とか恐竜や研究の事も基礎的な事なら話せます。学会に来るような方は、こちらの英語レベルにある程度合わせてくれますし。問題は、そういう手加減をあまりしてくれないまちのおばちゃんの英語が分からない(笑)。天気いいわね、元気?とかが咄嗟に分からない。
僕はもっと知りたいことがあって、これは学会に行くしかないかと思って学会に行き始めたんです。学会へ行くと、学会に来る人が魅力的なんですよね。もちろん僕の知りたかったことを知っている人たちですから、話していることも面白くって。また学会行けるなら行きたいなと思ったときに、やっぱり半端なものは作って持って行けないわけですよ。

-論文で言うと「査読を受ける」という感じですか。

そうそう。勝負を挑む、というかね。そういう気持ちで行きたいので。必然的に「学術的」な部分を大事にするわけです。そしてそうなると当然、他の学会にも行きたくなるんですね。いいものを作ればそれだけリアクションがある世界ですし。復元模型を頑張って作っても一般の人にはなかなか伝わらないこともあるんですけど、研究者の方は分かってくれたりするので面白いです。

ワークショップのプログラムを開発する

-いま、ちーたんの館でワークショップもされていますね。ワークショップをするようになった経緯も教えてください。

博物館やイベントで作品展示の依頼が来るようになって、その中のプログラムの一つで…という流れですかね。そういうしている間にワークショップをやるようになりましたね。ワークショップを初めてしたのは岸和田自然資料館ですね。その後に神戸の大丸で丹波竜の特別展があったんですよ(2009年、主催NHK)。その展覧会で作品展示とワークショップを担当しました。
僕はワークショップはできても、研究者ではない。だからちょうど京都大学の大学院で古生物学を勉強していた学生さんに声をかけて「実はワークショップ頼まれているんだけど、アシスタントにこない?」って言って来てもらいました。元々エデュケーションにも興味がある子だったんですよね。その2人で教室をやったんです。

-その時に初めてプログラム化されたんですね。

そうですね。それ以来、僕と専門家(学生か研究者)がセットでオファーを引き受けて、ほぼこの形を引き継いでいます。子どもたちにホンモノを見せてあげたいというのがあるので。
僕、生まれが福岡なんですけど、子どもの頃は古生物学者ってどこにいるんだか分からなかった(笑)。ネッシーよりも不思議な存在だったと僕はよく言うんですけど。ネッシーは真偽はともかく写真で見られるじゃないですか。でも古生物学者はどこで会えるのか、見られるのかが良くわかんないな、というね。ベストは学者を、学者じゃなくても学生でもいいから化石の発掘や研究の最前線にいる人達を子どもたちに見せてあげたいんです。たまたま、最初は京都大学とか大阪市立大学とかにそういうこと手伝ってくれる学生さんが多くて、更に今では、学会等で知り合った様々な大学の学生さんも協力して下さるので、それが叶っています。
いまでは4パターンの基本プログラムが出来上がっていますね。場所や対象、予算なんかの条件によってどのプログラムを実施するかを選んでいますし、要望によっては新しいプログラムを用意する事もあります。

「動物が死んでいる!」リアルすぎた丹波竜の発掘現場

-2006年、丹波竜の発見のニュースは何で知りましたか?

新聞…いや、ネットで知ったのかな。

-その時は…表現するとしたらどんな受け止め方でしたか?

日本でも福井をはじめとして恐竜化石は出てはいたので…でも兵庫で恐竜化石が出たというのは驚きました。ただ「おお!きた!」という大きな衝撃は実はないんですよ。

-そもそも発掘現場に行ってみたいという気持ちはある方なんですか?

いやいや、そもそも恐竜は博物館で見るのがいいな、という人間ですから。
とはいえ、すごいのが出てるよというのが、(発掘と研究が進んで)徐々に分かってくるじゃないですか。でもその時点でもピンとは来てなかったですね。そんな時、第2次発掘(2007年11月20日~2008年3月3日)の時、三枝先生に「現場に来ますか?」と声をかけてくださって。そこ頃はすでに古生物学会なんかに参加していたので、すでに先生とも面識があったので。

-それが丹波竜との直接的につながるきっかけですか?

そうですね。掘り出されている最中の丹波竜を見た瞬間に…

-最中だったんですね!

見てます見てます。その時に…わ!!!とすごいわ!って。

-そもそも化石の発掘現場を初めて見たんですか?

福井もまだ博物館が出来ていない時に、恐竜関係の友だちと一緒に行ったんですよ。地元の人に案内してもらったのかな。でも発掘はしてなかったな…。
確かに「まさに今」発掘してる現場を見たのは初めてでしたね。第2次発掘っていちばんいいときなんですよね。肋骨とかもいっぱいでて。
本当に…「動物が死んでる」というそのものの形が見えたときなんですよ。これはすごいわ!気持ち悪いわ!って(笑)。いや、もう、すごすぎて。もう完全にキャパオーバーですね。アメリカの恐竜発掘みたいだ!って。
とにかくびっくりしました。化石って石じゃないですか。石が地面から出てくる、無機物から無機物が出てくる、アタマでは分かっているんですけど。でも丹波の化石を見た時に「生きてた動物が、ここで死んでる」ってのが分かるんですよね。それがすごいというか…別の言い方をすれば生々しすぎて「気持ち悪かった」んですね。それぐらいリアルだった。
やっぱりあれは絵としてすばらしいですよね。バラバラではなくつながって「恐竜でした」という状態で出てきたので。

-三枝先生はわざわざそのタイミングで呼んで下さったということなんですね。

そうですね。

-篠山層群で恐竜化石が発見されたという一報から、まさかこんなにいろいろな化石が発見されるかとか思っていなかったですか?

それは思わなかったですね。それにまさか哺乳類が見つかるとは思っていなかったですね。あれは僕が関連の学会に行っていて、いろんな話が分かるから理解できますけど、よく言われる「学術的には丹波竜に負けず劣らず哺乳類も価値が高い」というのは、本当ですよね。
僕の私見ですけれど、わりと日本の研究者って「その当時の生態系をまるごと解明したい」という意識が強いんじゃないかな。もともと日本で恐竜が発掘されることが非常に稀なので、丁寧にやっているということかもしれませんけどね。丁寧な調査の積み重ねの中から、哺乳類やカエルのような、非常に小さいですが、世界でも珍しい、そして学術的には重要な化石が見つかっているのでは、と。
あとね、丹波竜が見つかった地域に三枝先生が居られたというのがすごいですよ。よく大型脊椎動物をやっている人が化石を持ちこんだ先にいたな、と。丹波竜が属する竜脚類という恐竜はよくゾウと比較されるんですよ。大型の植物食動物ですから。だからすでに化石ゾウ研究で著名だった三枝先生が丹波竜に関わられたというのは、丹波竜にとっても幸運だったんじゃないかな、と。
住んでいる場所の近くで、こうしてどんどん新しい発見が進んでいる。そして国内外からもたくさんの研究者が来ているし、地元の人たちも発掘に協力している。僕自身もまだまだ新しい出会いが増えそうで、わくわくしています。