子ども時代のスーパースターに出会える、ちーたんの館
この小さなミュージアムに
あることがすごい

大久保 省良さん (元丹波市地域おこし協力隊)

大分県杵築市生まれ。河口の干潟の生きものを探すのが好きだった子ども時代。そんな自然豊かな干潟を有する河に、ある日、河川改修工事計画が持ち上がる。「人の命か、環境か。どちらが大事なのか」-答えのない二項対立を間近にし、『環境』を学ぶために選んだ専門分野は「地学」。東海大学海洋学部に進学し、その後コンサルタント勤務を経て、平成26(2014)年度より丹波市の地域おこし協力隊になる。

まちと自然の中で遊んだ子ども時代

-大久保さんと「地学」の出会いについて教えて下さい。

僕は大分の杵築出身です。「サンドイッチ型城下町」と言われているようなところで、南北の高台に武家が住んで、間のへこんだ部分に商人が住んでいた。国東半島の南の付け根にあって、八坂川と高山川が守江湾に流れ込む河口部に城下町があります。そして守江湾に突き出すように、八坂川河口にお城が建っているんです。とにかく地形や土地の成り立ちが独特だし、守江湾の湾の中は干潮の時になると大きな干潟(東西約1.5km、南北約2km)が出現する。


http://www3.koutaro.name/machi/kitsuki.htm より

 

-日本でも自然地形をここまで活用した城下町もめずらしいですね。幼少時代の風景の中にすでにその地学に興味を持つ要素があったんですね。

子どものときは、たまに落ちている「寛永通宝」を探したり、コンクリートで小石を削って矢じりを作ろうとしたりとか…(笑)。そういう遊びをしていたんですね。そんな遊びをする子どもにとっては、事欠かない場所だった。

-周りは完全に「ゲーム世代」ですよね。

うちの親はテレビゲームがすごい嫌いで(笑)。いまでも覚えているんですけど…小学生の時にテレビゲーム買うか、夏に南の島に行くかどっちがいい?と聞かれたことがあったんです。テレビゲームはずっと家にいることになる。でも南の島を選べば夏休みに島に行けるよ、と。それで「南の島」って言っちゃったんですよね。だから結局ゲームは買ってもらえなかった。
それからは、県南の無人島にキャンプに行ったり、屋久島や久米島(沖縄県)へ行ったり。毎年夏休みはキャンプに行ったんです。

-さも自分で選んだかのように(笑)。親御さんの作戦勝ちですね。じゃあ、自然と生物や環境にも自然に眼が向くようになってきた…。

そうですね。守江湾の干潟はカブトガニがいることでも有名だったんです。小学1年生の時から河口の方の泥の中の生きものを探すのが好きになってよく遊んでいました。
でもそこで河川改修の話しが出てきた。計画はその当時で30年くらい前(※1)からあったらしいんですが、平成9(1997)年に環境に配慮した方向での河川法の改正がされることになった(※2)。その改正の前に改修工事をしようということだったようです。貴重な干潟があったので、議論はかなり白熱していました。でもちょうど平成9年に洪水が起こったこともあって、最後は結局工事を強行してしまった。改修工事に関して熱く議論されていたのは、僕が中学1年生くらいの時だったと思います。「話し合いに子どもがひとりいると、大人も紳士的に話し合える」とか言われて(笑)、よくその話し合いの会合に連れて行かれていましたね。生きものなのか人の命なのか、みたいな二択の議論になって、おおもめにもめました。

※1:昭和 28 年の災害を契機に局部改良として始まり、昭和 39 年洪水にて被災した後、昭和 40 年代に河口において大規模河川改修が実施された。(高山川水系河川整備基本方針、平成25年5月、大分県)

 

※2:河川法 97年改正:最大の特徴は河川環境を維持・保全することであり、例えば従来のコンクリート主体の護岸工事の修正、発電用ダムを含めたダムの河川維持放流の義務付け、河川生態系や植生の保護・育成が河川管理の目的に加わった(Wikipediaより)

地学~海洋地質学との出逢い

そして工事が始まるというタイミングで、カブトガニの産卵地だということが分かった。そんな中、環境調査にいろんな大学の先生が来たんですね。その頃はまだ福井の恐竜博物館ができる前でしたけど、初代館長の濱田隆士先生も来られていた。僕が恐竜に目覚めたのはそれがきっかけだったと思います。とっても優しい語り口の人で、子どもとフィールドワークしたときに、なぜこの石はこんな色をしていて、なぜこの河はここで曲がっているのか、とか、とっても丁寧に説明してくれたんです。
そして中1の時に福井の恐竜博物館のできる前の調査に、先生に連れていってもらえた。そこで大学生とまじって亀の甲羅とか見つけましたもん。そうしたら先生が貝殻を同定してくれて…。そこから地学とか恐竜に興味を持つようになったんですね。

-一方で、小さい頃に遊んだ干潟は工事で影響を受けてしまった…。

そうですね。話し合いの中でも「環境」というキーワードでいろいろ語られることが多かったんですよね。でも「環境を守る」とひとことで言ってもとても曖昧というか、そもそも考えるべき範囲もとても大きい。そのとき「環境」という概念の中でいちばん影響力の大きい分野って何かなといったときに、結局自分では「地学」という専門分野を選んだのかなと思います。
工事が始まる直前に、河口の河畔林にたくさんの動植物がいたので、最後にみんなでお別れを言おうというようなイベントを開いたんです。僕はその時点で高校3年でしたけど、まだ進学先を考えていなかった(笑)。そうしたら、イベントに東海大学海洋学部の研究室の先輩たちが「工事をする場所の上からみた俯瞰図」のようなものを作って持ってきてくれたんですね。僕、「この人たちすげぇな」と思ったんです。それまで全然どうしようかな、どの分野に進もうかなと漠然としか決まっていなかったのが、この人たちに出会って方向性が決まった。願書提出ギリギリで願書を出して、赤本みたいなものも、受験会場に向かう前の日に買って読んで…みたいな。受かってよかったなと。
進学したのは東海大学海洋資源学科です。海洋地質学を専門にしている根本謙次先生の研究室に配属されました。根本先生は海洋底の測量の研究者でして、海岸から海の底までの地形の変化を研究していたんですね。海岸の砂って川の砂と一緒でずっと流れているんです。そして最終的に海の底に落ちていくんですけど、ずっと移動しつつ、動的平衡のバランスの中で海岸線の浸食が起こったりしている。静岡にある海洋学部の目の前が海で、そこの海が実際すごい浸食されてましたね。富士山と松林と駿河湾が一度に見える三保半島という場所です。
だからその前後くらいから砂を観るのがすごい好きになって。コレクターですね。以前が引っ越すたんびにダーッと飾っておく棚を作って…。見ていると何かアイディアを思いつくんですよ。

-増えていっているんですか、そのコレクションは。

社会人(河川計画のコンサルタントの会社に勤務)になっても砂のコレクションは続けていました。例えば同僚や先輩が仕事で現場を観に行くときも、汚いコンビニの袋に入った泥とか、持って帰ってきてくれるんですよ。例えば琵琶湖にある古琵琶湖層群の粘土とか。新入社員の歓迎会で僕が本気になってその袋を開けたものだから、まわりが、本気になって止めるという(笑)。いまはガラス瓶の中にコレクションの砂を入れていますね。前は採取地を書いていたけれど、いまはもう、書かなくても忘れないな、と(笑)。
ただ、どこの砂でもいいわけではない。水の流れで移動した土砂って、ある程度粒の大きさが揃うんですけど…砂の粒がそろっている砂浜とか、好きですね。粒がそろっていない砂というのは人工的に流れをシャットアウトしたらできてしまう。コレクションの中でひとつだけ砂粒の大きさがぐちゃぐちゃになっているのがあるんですけど、佐久間ダムのダム湖の砂ですね。

-海外にも調査に行かれたことはありますか?

学生の時にオーストラリアへ行きました。ナショナルジオグラフィックがオーストラリアのメルボルンの大学で化石の発掘(ダイナソードリーム)というプロジェクトをしていたんですが、それに参加しました。朝の5時くらいの干潮のときに行って…みんなで大きなハンマーとピッケルで砕いて土嚢袋に入れて持って帰ってくるんです。まさに石割体験。

そして丹波へ

-丹波地域へ来られるきっかけはどんなものでしたか?

地域おこし協力隊でここに来ていますが、一カ所目は愛媛県今治市に行っていました。その時期に、上久下で「恐竜を活かしたまちづくり合宿」というものをされていて、そちらにおじゃましたんです。僕が地学を専門にしていたということも周りも知っていましたので、割とみんなが背中を押してくれた感じで、翌年には丹波に来たんですね。

-地質学的な魅力は印象に残っていますか。

石の感じが、僕が知っているのとは違うんだなというのはありましたね。ここは錆びたような鉄の色、赤っぽい。あと、僕の知っている日本の化石の発掘は基本的に、ものすごい硬い石を割るんですけど、ここの泥岩はものすごい柔らかい。わ、全然知らない石だな、と。その中で見ると断トツで異質だなと思いましたね。
来てからは、ひとはくに化石クリーニング研修に行かせてもらったりもしましたね。

-クリーニング作業はやってみていかがでしたか?

化石を「見る」だけだったら経験がありましたが、クリーニングは初めてだったので、すごく難しかったですね。プレパレーターの人たちって、本当にすごいことをしているんですよ。厚みが0.1mmかもしれないし、1mmあるかもしれないものに、良く分からないけど、針を刺してみるんです。化石じゃなさそうだったら、もう少し刺してみる…なだらかだけれども下がどういう凹凸をしているかが分からないものに、針を刺していって、化石にあてないように上の石を削るという。例えると、「アスファルトの中にガラスかなにかが埋め込まれていて、そのガラスに削岩機の棒の先をあてないようにアスファルトだけをはぎ取る」というような作業をしている。全体像も分からないままに。

-奥岸さんに適性は何かを聞いたんです。そうしたら「根気強さ」「手が震えないこと」「3D酔いしないこと」の3つをおっしゃっていました。実体望遠鏡を見続けても大丈夫な人、ということでしたけど。

僕は顕微鏡をのぞくのも双眼実体顕微鏡も慣れていたは確かですけどね。

-実際のデスクはこちら(ちーたんの館)におありです。業務のメインフィールドも上久下を中心とした丹波市山南町ですね。今年度が活動の2年目ですが、自分がやるべきだなと思う役割みたいなものは、当初とは変わってきましたか?

僕、上久下もちーたんの館もすごいところだと思っていて。最近、さらにじわじわ、そう思い始めたところなんです。
例えば小田隆さんって僕ら世代の恐竜好きからしたら、もう、すごいスーパースターなんですよ。僕がここ(ちーたんの館)にきて、いちばん初めにビックリしたのが、小田さんのサイン入りの復元画が置いてあったことですから。それ以外にも丹波竜の復元画なんかも10数名くらいのいろんな研究者の方が関わってくださっている。それがこの小さいミュージアムにあるということがすごい。
これだけ新しい化石がどんどん…日本の恐竜研究を変えるんじゃないかというくらい出てきているので、好きな人はみんな丹波を知っていますよね。例えばこれまで山南の篠山川の現場では計6回、発掘調査をしてきたわけです。ただ、調査の6回目は成果が少なかったんですよ。でもその後に近くを掘ったら、掘っただけまたすごいのが出てきた。例えば恐竜の卵とかですね。ここはもっと掘ったら出てくるんじゃないか、と、そういう雰囲気に、いまはなってますよね。
赴任当初は子どもや外部の人を連れてきて、その人たちに対してイベントや教育プログラムをしようと言う風に考えていたんですけれども、でもいまは中で活動している人たちが主役で、そういう人たちをサポートできたらなと思っていますね。その方がいろんな人を巻き込めるし、いままでの積み重ねを活かしていけて、波及効果が大きくなると。
僕はこの丹波を“恐竜を「職業」にはできないけれども、化石好きなアマチュアの人たちが割と気軽に化石を発見するための技術を学べる”ような場所になったらなぁ、と考えているんです。日本ではそういう場所はまだないので、すごい初歩的なことから教えてくれる場があればいい、と。大学の地学部で先輩から後輩に受け継がれているようなフィールドワークの所作が伝える場が作れたらいいですね。