化石発見。眠れない夏の夜
これが恐竜だったら
えらいことや

村上 茂さん (丹波市上久下地域自治協議会会長 / 丹波竜化石第一発見者)

1945(昭和20)年、山南町生まれ。大阪でのサラリーマン生活を経て60歳でUターン。その年の夏に高校時代の知人である足立冽氏と共に「丹波竜」化石を発見する。その後も「まちづくり」の観点から、丹波竜や恐竜化石の活用に尽力している。

 

大阪から生まれ故郷へ…定年後のUターン生活が始まった

-名刺を拝見しただけでもいろんなお立場で活動されていますね。まずは「丹波竜の第一発見者」としてのお立場が大きいと思います。発見するまでのお話しをお聞かせください。

今年72歳になります。
60歳で大阪の会社を定年退職しまして、田舎(下滝)に帰ってきたんですよ。
65歳まででも定年延長して働くことはできたんですけどね。
でも60歳で定年になって、せいぜい10年か15年でしょう、元気で動けるとしても。
だから自分の好きなことをしようと思いましてね。
とはいえ、帰って何をするというわけでもなくですね。
いま考えると、60歳で退職して「会社人間から開放される」という夢と希望があったんでしょうね。
わたしが帰ってくるという前提で、退職の15年ほど前に父が家を改築していましてね。
親父も期待しとったんですよ。だから意思を受け継いで帰ろうと思いました。

(退職して実家に戻ってきて)さぁ、何をしようかといっても…まぁないわね。
じゃ、畑でもしようかと。小さい畑ですけれども。
それもして「あとは…」となっても、そんなにすぐにはやりたい事って見つからないわね。
そして何をするでもなしに時間は経過して。
1年くらいはね、週に2回3回も、ゴルフしとったんですよ。
でも、それもいつで出来るとなると飽きてくるし。

60歳になってても田舎ではまだ「若造」なんですよ。
そして周りのひとたちはいろいろと仕事しとるんです。
「若いのがぶらぶらして仕事しないで」という感じやね。
そうしていたら、学生の頃に一緒に遊んどった友達と再会して。
それが柏原高校の英語の教師をしとった足立冽(きよし)いうんです。
もう30年も40年も連絡取っていなかったんだけれども、電話がかかってきてね。「おい、お前帰ってきとったんか」と。
久しぶりに柏原の丹波年輪の里で出会いました。
そこで「何しとんねん」と言われて。
「百姓しとって、空いた時間にはゴルフしとったり。でもなーそろそろな、何か考えなあかんな」と。
逆に(足立冽さんに)「お前は何しとんねん」と聞いたらね、「まだ週に何回か高校の先生も臨時でまだやっている」と、あとは元々、考古学や化石なんかも好きだったから、趣味であちこちを調べてまわったりしていたらしいですわ。
「どこらを調べとるんや」と聞くと、彼が「篠山市とか丹波市にいい地層があるんだ」「あ、そう。それはどんなもん?」「いや、篠山層群っていうんや」というわけですね。
「篠山層群という古い地層があって、調べとるんや。よくね、以前勤務していた篠山の方をね、植物の化石や珍しい化石なんかも見つかるんや。ゴルフは金がかかるやろ。化石探しならな、お金もかからん。オニギリふたつもあったら1日遊べるで」と。
それで実際にオニギリふたつもってね。足立冽君の後について彼が調べとる地層に一緒に行くことにしたんです。

最初は「みんなに自慢できる地域の宝ものを探したい」
という軽い気持ちから

その「探索」の1回目は足立君と篠山層群を、ひろい範囲でひととおり見てまわった。
そして2回目はひとつのところで集中して探そうかということになりました。
その時は「上久下の元水力発電所のあたりの篠山層群が見やすいから、ここでやろうか」と。わたしも近所でいいしね。

その頃ね、地元に帰ってきて感じたのはね、自分がこどもだった頃に頑張とったおじちゃんおばちゃんも80歳とかになっていて、お店も20軒、30軒あったところもほとんどなくなって…地域の雰囲気も変わったなぁ、今から何十年後を考えるとさびしいな、ということですね。将来を考えると「地域の活気を取り戻さなあかんな」と痛切に感じたわけです。
つまり、まちづくり活動とかに力を入れたいと思ったんですね。

その僕の願うところと、彼が化石さがしに連れて行ってやろうというのと、どこか合致するところがあったんでしょうね。
僕はこの機会をつかって「まちづくり」の手始めに、「上久下って自然豊かなところがたくさんありますよ」と、みなさんに自慢できるポイントを探そうかなと思ったんですよ。
小さい頃は「あそこに自然のきれいなところがある」と分かっていたけれども、もう一度見てみようか、そして見直そうか。その頃は気が付かなかったことで、違う良さが分かってくるかもしれない。そういう場所を探そうかと思ったわけです。

なので、その日(恐竜化石を見つけた日)はカメラも一応持って、長靴はいて、山とか川とか行ったんですよ。
地層や岩石調べたり、石灰岩調べたりね。
そして昼からは篠山川の方へ降りようかと。
昼ご飯の時間には川の土手に座ってね「わしな、ここで18歳まで育ったんや。昔はクーラーなくてな、夏なんかはここで泳いどったんや」とか言ってね。「そうかーここで魚釣りでもしながら遊んどったんやな」なんて話しながら。

その日は暑い日だったんですよ。
それに人通りも少なかった。
昔みたいに、上見てもだ~れも通ってないし、だからパンツだけで裸になったね、ふたりで川へ飛び込んで、泳いどったんですよ。
深くて結構流れもあるし、あぶないよね。オジサン二人がここでおぼれた~とかいって新聞沙汰になったらかっこ悪いなと(笑)、だから注意して泳ごうやといって、私が泳ぐときには腰にロープくくって、彼が後ろからひっぱるわけですよ。
そして彼が泳ぐときは、私がひっぱってね。流されそうになると、後ろからぴゅーっとひっぱるんです(笑)。
上がってきたら魚釣りしようっていって。
道具を車に積んでたからね、そうしているとちょっちょっと魚が釣れたりして。

今度、それにも飽きてきて。
じゃ、この辺で化石探ししようかと。
彼もね、あの辺りは過去に何回か化石探しをしていたらしいです。
だけどね大したものは見つかってないんですよ。
でもね、生痕化石というのは時々あるっていうんです。
それはね、堅い岩の岩盤にくっついてるんですよ。
1億年前の地層に、その時に生息していた小さい生物の生きていたあかしがね、残るんですよ。
例えばミミズみたいなものが這うとその跡に砂がたまって化石になるわけですね。
泥の中に小さい穴を掘ります。そこに砂がたまってそのまま棒状に化石化したものとかね。
そういうものが岩の壁についてるんですよ。
サンドパイプ(砂筒)と言うんですけどね。形が違うというのは昆虫や虫の性格で。
勇敢な生物だとストンとまっすぐな穴を掘ってしまうわけです。
でも臆病なやつは天敵からのがれるために変に曲がった穴を掘って住み家にするわけです。
それだけ見ても、想像しても面白いから、とね。

 

最初は全然興味なかったんですよ。それでも話聞いてたら面白そうだから、じゃあ探そうかと。
そこで5メートルほどある地層の岸壁がありましたね。
ちょうどサンドパイプでも探そうかというときに、目の前にね、約8センチ6センチくらいの楕円形の模様のようなものが見えたんです。模様が岩盤にひっついているのが見えた。
最初は薄い石の欠片が引っ付いているように見えたんですね。
似たようなものが2~3か所、周囲にもあったんですよ。
ただ、何でこの1つに眼が止まったかというと、他のものは輪郭がぼやけとるのに、ひとつだけが輪郭がはっきりしてるんですよ。
指でポンポンとしたら落ちるかなと思ったんです。くっついているだけであればね。
ところが落ちないで、周囲が全部泥で、その泥の表面が風化しているからね、触っているうちにパラパラと周りが落ちていくんです。
そして立体形のものが、どんどん奥に入っていっているのがわかった。
で、何だろうと思って。そこで隣にいた足立君を呼んでね、おいちょっと来てくれと。これもサンドパイプかなぁ、と。
ええ!大きいのうと。
それで、ふたりでもう少し周囲を崩して、ぴゅっとひっぱったらスポッと取れたんですよ。
でもその先をのぞいたらまだ奥に続きがあるんです。何じゃこれ、といってね。手元のハンマーでもうちょっと掘っていって、しゅっとひっぱったらまた取れちゃったんですよ。これで2本ね。ボールペン2本分くらいね。
恐らく、上からの圧力でひびが入ってたんでしょうかね。あれ抜けた!ゆうてね。これで終わりやーと思ったら、まだ奥にあるんですよ。なんじゃこれ、と。なんだかよく分からなった。

「ひょっとすると恐竜の化石かも」「そんなあほな」

私はこれはね、木炭に見えたんですよ。2本を叩いてみたらね、キンキンと高い音がするんですね。木琴みたいなね。珪化木(木の化石)かな、という話もしてたんですよ。彼は「じゃわしがもう少し調べてみるわー」と持って帰って…その日の夜の8時くらいかな。電話で「おい村上、すぐに来てくれやい」と。それで僕、車で柏原の彼の家まで行ったんですよ。
「あれ、どうやら木じゃないよ。なんかの骨のような感じがする」と彼が言うわけです。1億年前の地層の調査。1億年前といったら白亜紀ですよね。あの地層は1億2000~4000万年と当時は言われていたんですよ。今よりも平均気温が6~8℃高かったというから、今でいったら赤道に近いところ、亜熱帯地方の気温に近かったんだね。大きなワニとか亀とかもこの場所で生息していてもおかしくないと云われていると、形や大きさを見てね。でもね、亀にもワニにもこんなにストンとまっすぐな長い骨を持っているのはいないんですよ。それ以外の大きな動物って何やというたら、恐竜以外はいないんですよ。ひょっとしたらこれ恐竜かもしれん、と。わたしは「そんなあほな~」と思ったけどね。半分遊びながらね、ちょっと変わった形の模様を見つけて、ぴゅっとひっぱってみたら恐竜化石だったなんて。そんなことないやろ、と。彼の方が熱っぽくなっててね。どんどん話が弾み始めてね。これが本当に恐竜だったら、という話になってきてね。夜中の1時かな…まわっとったわ。どんどん話し込んでね。
本当にこれが恐竜の化石だったら大変なことになるで、お前の家の近くの下滝駅の前に、お前の銅像が立つかもなぁ、テレビ出るかも知れんぞ、新聞に載るかも知れんぞ、と。夢みたいな話をしとったんですよ。

「恐竜化石だ!」騒然となる博物館を後に…

でもね、その化石を2本取った後もね、続きを現場に残して来とるじゃないすか。あれが気になってね。みんなが子どものころからよく知っている場所ですからね。ひょっとして他の人に気付かれることになったらあかんなということで、翌々日も朝の7時半くらいから、今度はハンマーじゃなくて家にある大きな金具を持って行って(鉄の棒やら)、それから掘り出したんですよ。
最初は二人がかりで掘りますわな。どんどん掘っていくとふたりじゃ掘れなくなるわけです。ひとりが掘っていたら、もうひとりが後ろで「がんばれよ~がんばれよ~」と応援するわけです。
2日目も同じ寸法が出てきたんですね。25センチくらいね。それで合計50センチくらい掘り出したことになるわけです。「これ以上はもう手では掘れないな、先に博物館で調べてもらおう」と残り部分を現場に残したままで、急いで博物館に向かったんです。車にボロンと乱暴に置いて(笑)。まさかその時はそれほど大事なものだとの認識も薄かったからね。もちろん恐竜であってほしいと半分はそう思ってましたよ。でもね。途中、うどん屋さんに「おい、腹減ったな」言うて立ち寄ったりもして。車も鍵かけたか、かけないか…ともかく急いでうどんを平らげて博物館に向かった。後からそんな話したらね、笑われたね。もし取られたりしとたらどないすんねん、と。

-その時は博物館へ何か予約をして行かれたんですか。

足立君は化石探しが好きでしたし、三田にこういう博物館(兵庫県立人と自然の博物館)があることもよく知ってたんですよ。最初に見つけた時に調べてくれていてね。恐竜が専門ではないけれども、見て分かってくれそうな人-三枝先生という人もいると。予約なしでね、突然、受付で「三枝先生おられますか?」「ご用件は?」「ちょっと見てもらいたいものあるんですけど」と奥の研究室から呼び出してもらいました。

-三枝先生とは初対面ですか?

そうそう。私も彼も博物館へ行くのも、博物館で研究者に会うのも初めてでしたから。三枝先生が僕らの待っているテーブルに来られて、僕らは早速「見て欲しいものがあるんです」「恐竜の骨だと思うんですけどね」と、汚れたタオルで包んだ化石を小さいかごから取り出したわけです。
こういう人はよくあるらしいんです。こんな虫が見つかったとかね。みんな鑑定してもらいに来るらしいんです。だから「またいい加減なものを持ってきたのかな」くらいにしか思わなかったらしくて、すぐには見てくれないんですよ。話だけで3分4分かかってね。その時間の長いこと。僕らはやきもきしましたね。そうして、やっとタオルの包みを開いてぱっと見てくれましたわ。4本あるんですよ。その中の2本取って、すぐにね、先生が「これ、恐竜ですよ!本物の恐竜の化石です。間違いない」と。矢継ぎ早に言ったんです。

-その時、どんなお気持ちでした?

僕たちは2日間、恐竜かも知れんなぁ、そうだったときはどうなるかな。と心の準備までして出かけていったわけですよね。ひょっとしたらテレビに出るかもしれないな、新聞に出るかもしれないな、とか(笑)。(だから)ホッとしたというか、嬉しかった。良かったなぁ、と。それが正直な気持ちですわ。
よく新聞の取材でも「最初の発見の瞬間の感想を聞かせてくれ」とよく言われるんだけどね、実際正直なところは「なんの感想も感動もなかった」んですね。なぜかと云ったら、そのものが最初は「何かわからなかったから」ですよ。テレビや新聞ではその程度の感想では記事にならないからね。かと言っても「うれしかったです!」とか言えませんですよね。でもね、本当のところは、博物館での鑑定のあとは「ホッとした」という感じですよ。最初に(発見した)現場ですぐに先生が「恐竜化石だ」と言ってくれたら、もっと感動したかもしれないけどね。でも僕らは一旦持ち帰って本や図鑑などで調べて…ある程度の確証を得てから行ってましたから。

-でもホッとされて「やっぱりそうだったんだ」と思われたと同時に、地層の中に残されてきたもののことも思い出された…。

そうそう。それでね、三枝先生が「これ恐竜ですやん!!!」と静かな博物館の図書スペースで大きな声で言うんですよ。さすがにその大きな声に他の人がざわつきだした(笑)。「じゃ、もっと詳しい話を別の部屋で」と、三枝先生の研究室に行きますでしょ。研究室では私たちの慌てた様子に他の研究者もどうしたんですか!と。みんな聞きに来るんですよね。「いや、この2人が恐竜の骨を持ってきたんですよ」と。
「どこで見つけました!?すぐに連れていってください!」と。急いで身支度される三枝先生が「手帳入っているかな」「カメラ入っているかな」とカバンの中を何度も確かめている。そのあわてぶりが印象に残ってます。我々の車に同乗されて現場に到着し、発見した時の状態を確認してもらいました。「まだ化石の続きがあるんですよね」「じゃ、残り続き部分は博物館のスタッフと一緒に掘りましょう」となりました。9月の終わりになって、現場に残した化石の取り出しとその周辺地層を奥行80センチ、幅7-8メートルの範囲で3日間の「試掘調査」を始めました。博物館より、8名ほど、工事業者3名、ほかに我々も2人加わりました。
そうしたらポロポロと化石が…まるでショーウィンドウに飾ってあるかのように出てきたんですよ。それにはびっくりでした。三枝先生も「これはひょっとしたら、この当たり一帯にもっともっと埋まっているんじゃないか」と確信されたようです。

「恐竜化石発見」がニュースになるまでの、長い道のり

それからですね、「この辺に恐竜が一個体分眠っているんじゃないか」と、行政と発掘費用を工面するのに3ヵ月くらいかかったんですよ。どこからどう工面するか…私も博物館の先生と一緒に丹波市にも県民局にも行きましたわ。
子どもが親に小遣いくれ、と言うときに「何に使うんだ」と言われますわな。県でも市でも同じです。「お金出してください」「何に使うの」と。説明しなくちゃいけない。でもまだ「恐竜化石が出ました」なんてことは極秘事項ですし、限られた人以外には秘密にしておかなくちゃいけない。会議室の入り口に鍵かけて、やっと打合せを始める、なんてこともやっていましたね。
そんなことを続けるうちに、自分たちでもどんだけすごいことか、どんどん分かってきてね。例えば盗掘を防ぐために現場を保護してもらわなくちゃいけないし、そのためには警察に話をしなくちゃいけない。「不審者がうろうろしてたら注意してほしい」と、地元の駐在さんにも、もちろん話をすわけです。駐在さんは事の重大性から「恐竜化石発見は大変なこと。本署にもすぐに報告しておかなくちゃいけない」と言いましたわな。
発掘調査費用の目途がたって、発掘調査日程の予定が立つまでは、すべてを内緒にしておかなくちゃいけない。そこで足立君と私とで当番決めてね。交代交代で現場を毎日パトロールすることにしたんです。そしてメールで「本日異常なし」とお互い連絡し合ったりしていました。ところが日がたつにつれ、「丹波のどこかで、恐竜らしきが見つかったそうな」とのうわさがどこからとなく広がってきた。行政関係者やごく限られた人しか知らない情報が、いつの間にか「内緒やで内緒やで」と言って情報が入り混じるんですな。そのうち、マスコミも感づいてきて、我々が現場に異常ないか確認に行くときに、誰かが後ろをつけてくるように感じることもあったんですね。警察に報告してからは、地域の住民も「最近やたらとパトカーが走り回るな、今までこんなにパトカーがくることもなかったのに」と。

-恐竜化石発見の記者会見がある前にそういう風にあの場所を守ること、予算を取ること…を経て、いちばん最後に記者発表ですね。

そうですそうです。だからあそこの現場が特定される前にね。行政がね、人が殺到した場合に危なくないように柵をしておこうとか、そこまで手立てをしておかなくちゃいけないわけですよ。しかも内密にね。でないといったん発表したら1日のうちに大勢の人が押し掛けてくるでしょ。
9月末に試掘調査として3日間発掘したんですが、それの段取りも研究者とわたしたちだけでしました。調査のための削岩機も電源取らなくちゃいけないし、工事業者も頼まなくちゃいけない。大きな車で来たらばれてしまうから、小さな車、せいぜい軽トラックみたいなものでコンプレッサーを積んできてくださいと頼むわけです。それにそういう機材をどこに置くかといったときに、そこの農地の持ち主にね、了解を取ったのも私です。「安全対策かなにかで河川の調査のためにちょっとした機械が入るけれども、場所を貸してもらってよろしいか」と聞いたりね。それで3日間調査したんですよ。その時に私たちが見つけた肋骨以外に、しっぽの化石が4点ほど見つかったんです。
翌年の1月に記者発表になりました。最初は1月12日に発表しようかと、博物館と協議してたんですよ。でもお正月に、ある新聞にすっぱ抜かれましたね、「丹波のある場所で、恐竜らしきものが見つかりました」と。なので結局、発表日を予定を繰り上げて、正月早々1月3日に早めたんです。発表の反響は想像以上でしたね。新聞もテレビも全国版の扱いでした。人と自然の博物館で記者発表したんですが、カメラが10台以上きましてね。昼の1時半かそれくらいから始まって、終わったのは夜の8時くらいまでですかね。それだけ質問がたくさん出ましたね。それくらい興味関心を引いたんですよ。博物館始まって以来の大がかりな記者発表だったとのことです。

「丹波のつながり」が生み出した世紀の発見

-「丹波竜」というのは、どなたが付けられた愛称ですか?

丹波竜という愛称は、わたしと足立君の2人で決めたんですよ。どの恐竜も発見されたら大体名前が付きよる。例えば、岩手県のモシ竜(地名)、鳥羽で見つかると「鳥羽竜」とか。他にも、石川県の加賀から出てきたら「加賀竜」とか。そこの地名がついたんですよ。
ひとはく(兵庫県立人と自然の博物館)で「恐竜化石だ」と断定されて間もなく、ふたりで話しているうち、「恐竜の名前をつけんといかんな。どんな名前にしたらいいか」と。そこで、地元の地名から、上滝竜とか上久下竜(地区名)、山南竜(町名)、兵庫竜(県名)、丹波竜(広く地域名)…いろんな案が出ましたけど、言いやすいし語呂もいいわな。だから「丹波竜」としました。
「タンバティタニス・アミキティアエ」という学名がつくまでも時間がかかりました。この現場は、雨が少なく川の水量も少なくなる冬季12月から2月までしか発掘調査はできないんですよ。1年のうち3ヵ月だけの発掘調査を6次発掘…つまり6回、6年間繰り返してきたんですよ。その結果、頭部から尻尾の先まで、たくさんの化石が出てきましたね。それらを全部クリーニングして、昨年(2015年)9月に三枝先生が36ページにもわたる研究成果を英文学術論文にまとめて、科学雑誌(ズータックス)に投稿して…そこで初めて「新属新種」と断定され、学名も「タンバティタニス・アミキティアエ」と決まったわけですね。
普通はね、学名には地名や発見した個人の名前がついたりするんですよね。ただね、いろいろと規則やルールがあって、もちろん文字数にも限りがありますから、2人をまとめて「ふたりの友情があったからこそに発見された化石だ」とのことで、「アミキティアエ(ラテン語)」=友情、三枝先生がつけてくれたんですね。
もし私だけだったら化石を見つけてもわからずままに、川に放っていたかもしれないし、もし彼(足立冽氏)だけだったら私が不思議と思った模様も、別に不思議とも思わなく、手で触れることもなかったかもしれないね。でも私もね、彼が一緒だったからこの部分(模様)に触っていたと思うよ。仮に、研究者や学者、専門家がそばにいたとしたら「先生これなんですか」とは聞いていないかもしれないわけですよ。「化石はねこんな形で見つかることはないよ」とバカにされるかもしれないからね。
今回の化石はいろいろと「目に見えない糸でのつながり」があってはじめて世に出たことなんだなぁ、と思いますね。まずは私に足立くんが声をかけてくれて化石さがしに誘ってくれたこと。そして化石を発見して持ち込んだ博物館が兵庫県立で、当時の館長が岩槻さんでしてね、わたしの高校の大先輩なんですね。そして名誉館長は河合先生、篠山のご出身ですよね。県内の地層で発見されたものを、発掘調査から研究、発表まで県内の施設や人員でできたというのが良かったなと。わたしと彼が、また三枝先生も含めて、それぞれが役割を果たしてきた過程で、ボタンの掛け違いも起こらず、順調に進んで辿りついた『恐竜化石発見』だったんですね。「何か途中で困ったことはなかったですか」と講演でも聞かれることがありますが、それは特になかったですね。すべてがうまくいってましたね。これは大変珍しいことのようです。

企業組合で取り組む「恐竜化石」を活かした「地域づくり」

-村上さんは10年前には化石のこと、篠山層群のことをあんまりわからなかったけど、Uターンして地域を元気にしたい、魅力ある場所や宝ものを発見したいなと思って地域内を歩きはじめたということですよね。いまは自治協議会会長や、企業組合の理事と言うお立場で、(この発見を通じて)上久下が元気になる環境づくりを熱心にされてきているなと思うんですが。

8つの集落で成り立っているのが上久下地区なんですね。昔はここを上久下村と言っていた。自治協議会の長は、むかしでいえば村長さんですよね。いきなり故郷に帰ってきて、いきなり地域の長というのも躊躇したんですけどね。でもね、引き受けますと言って受けたんですよ。いろいろと会社の仕事を通じた経験から、民間企業の感覚で新しい事業もしましたし、人員の適材適所配置も含め、いろいろ考えてやりました。化石発見後すぐに、自治協議会の中に「化石を活かしたまちづくり部」という組織も新しく作りましたね。

-トイレ、駐車場なども何年か前はなかったですものね。

最初、いちばん困ったのは車を止めるところがなかったことなんです。昔はあそこ(「元気村かみくげ」の設置場所)は山林や田畑に薬をまくためにヘリコプターが一時的に駐機するような、荒れた原っぱだったんですね。市が買い取って大駐車場を整地し、そこに地元が、国や県の事業で採択された補助金や支援金つかって、施設整備をしてきたんです。施設のほとんどは、わたしたちの手づくりで完成させてきたものと思っているんです。

-元気村かみくげを企業組合にされたというのも興味深いです。

まちづくり活動の成果として大勢の人が上久下に来るようになりましたが「もう少し地域にお金が落ちるような仕組みを考えなくちゃいけないな」「あそこを我々の活動拠点として、収益事業を目指した施設を作りたいな」と思ったんですね。本当は、全住民が出資者となった企業法人を作りたいと思っていたんですが、いろいろと困難が多くて、別の方法を考えたんです。「活動拠点で収益事業を!」と出資者を地域内公募したところ、上久下地区の90人ほどが気持ちよく出資者となってくれました。みなさんは、出資金に対する配当を期待するわけでなく、まちづくりに協力したいとの思いでの参加でした。今は90人の組合員が「事業で得た収益をお年寄りや子育て世代に、地域に還元する」という考え方でやっています。儲かったからといって配当するというイメージは考えていないですよ。「わたしは組合員じゃないから、元気村かみくげのことは知りませんよ」と云う人にも、「地域還元を目指した組合」の意味もわかってきてくれています。わたしたちは成果を地域のひとたち全部にいきわたるようにやっているんですから。「元気村かみくげ」はみんなの会社や、という認識のもとで活動しているんです。
設立してからほぼ4年になるんですが、ようやく赤字ではなく、徐々に黒字になっているんですよ。もう少し売上、利益を増やして、子育て世代に、例えば子どもさんが入学するときにランドセルのひとつプレゼントできないか、お年寄りが老人会で活動するときに何か手助けできないかな、とかね。そういうことを今は考えています。

-収益を地域還元するという活動もあれば、もうひとつ「化石調査隊」のような活動もされていますね。やはり地域の資源に関わっていくということですね。参加される方は組合員の方ですか?

そうですね。組合員が多いですね。組合員でなくても活動に参加は自由にできるんですよ。「化石調査隊」も元気村かみくげの事業のひとつで、「次の宝さがし活動」なんですね。その他に何をしているんだといったら、化石の発掘体験、野菜の販売、食堂の運営、公園の管理もしているんです。これから力を入れていかなくちゃならんなと思っているのが食堂のメニュー拡大、恐竜関連グッズやお土産物の販売ね。新商品開発もこれからもしっかりやって行かなくちゃなと思いますね。これからもまだまだ頑張らなくちゃね。後継者の育成も含めて長い目で、大きな目標を持ってですね。

-化石の石割体験を子どもたちに向けてされていますね。

ええ。元気村かみくげには、校外学習として年間5000人くらい阪神間から来てくれるんですよ。「化石の調査隊」、いまは元気で動ける隊員は5~6人しかいませんけれどね。その中に将来は地元の子どもたちも巻き込んでやってみたいなと思っているんです。化石を探すときから同行させてやってね。それは子どもたちに地域の宝を通じて、地域に誇りを感じてもらって、将来の地域を担う人員となることを願ってのことですね。仮に、子どもがあたらしい宝(化石など)を発見すれば、すばらしい財産として、永く心の中に残ることになると思うんですよ。そういう活動は、子どもに対する「教育」としても、とても大事だなと思いますね。
恐竜の卵とか卵の巣が見つかりましたね。恐竜がここで巣作りしていたということですね。「自分たちの住んでいる地域は、そんな貴重な資源がある素晴らしいところなんだ」と、地元の小学生の子どもたちに分かってもらって、まちに出たとしても将来的にまたここに戻ってきてほしいと思いますね。