化石の眠る篠山層群を遊び場に駆け回った日々
目をつぶるといまでも
あの光景が浮かびます

稲上 好成さん (篠山市宮田在住)

昭和17(1942)年宮田生まれ。転勤で、神戸・広島そして大阪に住み、昭和50年からこの地に戻った。お父さんの代には街道筋で豆腐屋をしていたという。自宅の目の前には「妙見山」(太古のいきもの市民研究所がある丘)が見える。

みんなで遊んだ「妙見山」

-まずは宮田で遊んでいた、子ども時代のお話をお聞かせください。

昔はこの辺も結構積雪がありました。少し離れますが、ちょうど新たんば荘の北側の産業高校の見えるところが、距離は短いですけれど坂になっていて、ソリ遊びとか、中にはスキーですべったことのある人もいるはずです。

-そんな「遊び場所」でもあった、宮田の妙見山周辺から哺乳類化石が発見されたと聞いて、どう感じられましたか?

よもや化石が出るなんて思っていないですよね。
それから西紀南小学校の裏山だって、完全に…あの独特の色なんかを見ると篠山層群ですよね。そういわれてだんだんわかってくると、あの山もそう、あの山も、と(思えてきます)。この辺で遊んだ頃は、そんなことは全く思いもしなかったですね。
当時はチャンバラごっこしたり、ターザンごっこしたり、動き回っていますので、(このあたりの地形などは)よくわかっていますけどね。いまでもずっと目がつぶったら、いまはもう景色が変わっていたとしても、この辺こんな坂やったな、池があったな、とか、割合記憶が残っていますね。

本聞き書きで登場する場所の位置

 

-身体が覚えているんですね。

この辺に「馬の背」とかいってましたが、木がなくって雨水とかで馬の背中のようになってましたね。そこで石とかも拾っていましたけど。基本的にあのあたりは柔らかい石が多くありました。石も、そういう目で見ていないで拾ってますからね。
石器になりそうな、かけらとか、いろんなもの拾ったりしていますけど。おそらく小さいころに「化石が出てる」ということを知っていれば、違うかもしれません。

(お家から見える小高い山を指して)ここもそう(篠山層群)だと思うんですよ。この山は「妙見山(みょうけんやま)」というんです。なぜそういうかというと、単純にいって、妙見さんが祀ってあったから。わたしたちの知っているときにはもうお堂はありませんでしたけれどもね。いま(平成28年9月当時)は化石のクリーニング施設(太古の生きもの市民研究所)がありますね。わたしらは小さい時からなじみのある山なんです。
この山の土は基本的には柔らかくて、子どもが掘ったりしやすい。だからこの斜面でもソリ滑りしたり、いろいろ遊んでいたんですよ。中にはスコップで掘れるところもあったんですね。子どもの手でもこれくらい、えぐれるんです。そこにね、ビー玉とかちょっと大事な、自分の宝物を隠しておくんです。石で蓋をして。自分だけわかるようにして。とられないように。そうしたらね、後日、とろうとして、中にずっと手を入れるとね。湿った土ですからね、中にね、ムカデが入っていてね。入れた瞬間にかまれてね。ものすごく腫れましたね。そんな思い出もあるんですよ。
み~んなここで楽しんでいるんです。ここでもチャンバラごっこしたりね。本当の「遊び場」やったんです。なんかあったらすぐに「妙見山行こう!」と。みんなで連れ立って。

(奥さん)結婚したころ、40何年前ですかね。公民館が建った当時、あの時はまだこんなに樹がなくて。家の前にこんな山があるわ、と思って。簡易の七輪みたいなものを持って行って、家族ですき焼きした思い出がありますよ。神戸からきた私からみたら楽しかった。いま化石が出ているところの作業場所もね、子どもが小さいとき、うろうろするのが好きだったもんですから。いまはきれいに取り除かれたんですけど、あの頃は大きな石がごろごろしていたんですね。道挟んであっち側は白い大きい石があって、ネコヤナギの木があるのが覚えていて、よく取りに行ったりしていました。いまは入れなくなっていますけどね。よく遊びに行っていたのに、全然(化石のことなんて)気が付かなかったです。

集落みんなで守り、使った「妙見山」

昔は「妙見講」といって講員がいて、毎月家々でお祭りの当番をまわして、月1度お祀りしていたんです。そして年に1度はバスで能勢の妙見さんにお参りに行っていました。いまは(講の)維持が出来なくなってお返ししましたけどね。

 

昭和45年10月に、西紀公民館が完成したんですね。いまこそ樹が生えていますが、元々はブランコなんかもあって、妙見山公園と言われていました。当時は低木が植えてあって、サツキやつつじがよくあったんですよ。せいぜい松の木が何本かあって、見晴らしのよいところでして、だんだん手入れが良くできなくなって松くい虫で枯れてしまってこういう状況ですけどね。戦争の時は開墾して畑をしてサツマイモや大根を植えたりしていました。実際、作っていたのを覚えていますね。

昭和50(1975)年の宮田周辺 空撮写真<国土地理院HPより>

ちょっといまは想像もつかないと思いますけどね、ここでも松があってね、こんな山でも結構、松茸が取れましたね。
あと、8月の終わりになりますと、盂蘭盆(うらぼん)をしていました。薪を松明のようにしてくくりましてね、火を付けましてね、まわしながら一列になってずっと、登って行きましたからね。2カ所くらい上に上がる道があるんですよ。
宮田でもわたしより上の年代の人は、そういうことをしたという記憶があるようです。当時、「夏休みの終わりに、宿題もしなくちゃいけないのに…」と、焦りながらそれを見たり、準備を手伝っていて記憶がありますね。
宮田に80~100戸がありますけれども、全部のお宅が参加したわけではないですよ。そういうもの(松明)を作れる家ということですね。

この写真はその妙見山公園で、東町という地域の人が1月1日に、一同で集まって「おめでとう」とあいさつをする集まりの時のものです。今も続けているんです。ただ、みんな年配になってきていて、人数も減ってきていますけれど。2~3年ほど前からは上に登るのはやめて、下で朝9時頃から始めています。いま、参加する子どもはいませんけどもね。ただ、いまでもタイミングよく帰省していればたまたま参加してくれることもあります。
昔はこんなに(子どもたちが)いたんですよ。(寒さをしのぐための薪の)煙が出ていますよね。当時は早朝に集まっていました。時には積雪もありましてね。除雪しもってしたりね。

-皆さん、何か食べ物や飲み物を持ち寄ってですか。

そうですね。町内会長がお酒や子ども用の飲み物も用意してね。

-親戚が集まるような感じですね。いつごろからされていたんでしょう?

わたしも小さい時から上がっているんで。終戦くらいからやっているんでしょうね。戦中はこんなことできませんから。70年くらいの歴史があるのかな。

-初詣にはいつ行かれていたんですか?

おうちによって違うと思いますが、わたしらはこの集まりの前に初詣に行っていましたね。年末から年始にかけて、紅白歌合戦が終わったら弘誓寺(ぐぜいじ)(上板井)へ。そこで鐘をつかせてもらったり、あと一宮神社(下板井)も行ったりしてね。

宮田の商売、丹波大山駅の思い出

中学校の方の道路(県道140号線)は昭和40年代にできた道です。その前まではこの(家の)前の道だけですからね。篠山の城下町では年末の10日ころに誓文払いをします。わたしの家もね、いまはひっこんでいますけれどもね、その家の前で父の代までは豆腐の製造の商売していたんです。

-街道筋でお店が並んでいたんですね。それぞれのお宅に屋号はありますか?

このあたりはあまりないですけどね。でも昔から屋号のある家はありますわね。いまも魚屋さんや雑貨店がありますけれども、その周りは昔、自転車屋、たばこ屋、旅館、パチンコ屋さんも2軒あったり、酒屋さんも。結構ありましたよ。西紀町の中心でした。

-山では松茸も取れて、豊かな生活ですね。

父も入札でいくらかお金をだして、松茸を取る権利を得て、豆腐屋の傍らでしたから微々たる量ですが、松茸の出荷もしていました。わたしが高校のころだから、昭和30年代だったかすごく豊作で、かごにいっぱい入れて帰るんですけれども、かごにはいらないほどいっぱいでね。山を下りているとぽろっとこぼれたりね。で、こうして(腰をかがめて)とろうとすると、またぽろっと落ちたり。今じゃ考えられないですけれどもね。家は虫のはいったものをたべて、良いものは出荷して、(家では)つくだ煮とかにして食べていました。正直、同じものばかり食べなくちゃいけなくて、嫌でしたな。いまじゃ考えられないですけどね。

-松茸が取れるその時期に、まとめて収穫して現金化するんですね。時間との勝負ですよね。

いまのように車もたくさんありませんし、宅急便やらもありませんから、父に頼まれて丹波大山駅へ松茸を出荷するために行っていました。松茸をこんな竹のかごに入れてね。自転車で。丹波大山駅に鉄道輸送の受付があって、そこにお願いして大阪やら神戸へね、出荷してたんですね。
あそこは当時、有人の駅でしたからね。20人くらい職員さんがいて、いわば社宅がね、建ってたんですね。神姫バスも柏原行く便、草山へ行く便は、あそこが出発点だったんですよ。今ではずいぶん寂しくなっています。

-(運ぶ)ものだけを預かって、鉄道に乗せて運んでくれる、ということですね。

そうですそうです。(人が)乗らなくていんです。こんな札つけてね。そんなんですね。

-神戸とか大阪に出荷していた。

ええ。豆腐屋しながらですから、おやじなんか取り扱い量が知れていますけどね。でもそれを生業にしている人なんかはすごい量ですよ。それだけとれたということですよね。

-大阪の中央市場とかへ出荷していたんですね。丹波大山駅、いまの姿からでは想像もつかないです。ちょっと聞いていたのは、戦中はお米を買いに、都会からよく来ていたとは聞いていました。

それはね、おっしゃる通り、丹波大山駅なんかはその辺では便利の良い駅で。わたしの記憶では尼崎のほうから、この辺ではちょっとないような、ハムだとか、そういうおいしいものを背中に背負って、ずっと定期的に売りに来られていた方もいましたね。帰りは空でしょ。だから篠山でお米なんかを買ってね、帰っていましたよね。いわば往復商売ですよね。

-都会からハムを売りに来ていたと…。

いや、ハムだけじゃないんですけどね。干物とか、魚屋さんもありますのにね。でもそこにないような品物もきっとあったんだと思うんですよ。で、都会の人だけじゃなしに、田舎の人もね、お米を背負って持って行って、帰りの時に都会のものを買って持ち帰るという反対の商売も、結構大勢いらっしゃいましたよ。

-河南勇商店さんとか、森米穀さんとか、いまでも丹波大山駅の周りには農産品を扱っているお店がありますね。

そうですね。河南勇商店さんは、古いですよ。山の芋は、いまのおじいさんの代からされてますからね。

-そういう意味では丹波大山駅ではいろんなものが集まる結節点だったんですね。

そうですね。西紀町では今ではこの向こうの西紀記念病院のところから南に広い道(川北方面、高速IC方面へ行く道)ができていますけど、そんなんは最近の道ですから、当時は農道しかない。
私たちは大阪に出るといえば、昔は丹波大山駅から乗り降りしていたんですよ。いまはもうね、篠山口駅しか行きませんけどね。車ですし。ですから、丹波大山駅は、西紀町や、丹南町の大山の方はもう都会に出るスタート地点でしたわ。それだけ重要な駅だったんです。
丹波大山駅から昔は大阪まで通勤しているんですからね。2時間10分ほどかかって。朝5時ごろに家を出て…。そりゃ、それが普通でしたからね。今はね、福知山線も篠山口駅まで複線化になって。以前は福知山鉄道管理局の範囲内でしたから、篠山口止まりという電車はないわけですよね。だから私たちが丹波大山駅から乗るということは、それは当然大阪まで行くんです。それまでに、下滝やら谷川の人たちが乗ってきているわけですから。

-丹波大山駅も近いといえば近いですよね。

そうです。私らは全部自転車でしたよ。子どもの頃は神姫バスでしたけれども3キロくらいですかね。駅の手前の坂がきついですけど、でも自転車で行ってましたよね。
少将山とか。これも、篠山層群だと知らずに通ってますよね。舞鶴自動車道の…この辺ですね。ここは饅頭山(まんじゅやま)という、小高い山があったんですよ。いまはもうなくなっていますけどね。まんじゅやま、きつねやま、とか言われていましたね。全部そうや、今から考えたら篠山層群や。全部重要なものがあったかもしれません。

県道140号線ができたあたり、これはずっと山道があったんですよ。栗の木があったり、そこに栗を取りに行ったりもしました。この道を作るときね、この篠山市がやっと手に入れたここの土地ね。ここから出たということは、この山を削った時には相当出たんでしょう。

-県道140号線をV字に切ったということですか?

あんまりね、切ったということはないんですよね。この辺は竹やぶになって…鞍部ですけどね。ちょっと掘ったら道路が通ったというくらいですね。むしろ河内台のほうが、削ってます。これやるときにその話がなかったので、化石が見つかって10年でしょ。この工事が20年前ですからね。工事の前にわかっていたら、待ったがかかったかもしれませんね。
だから私ら、この(宮田の)土地を篠山市が買ってよかったな、と。あの場所を力を入れてやりかけたら、ああ、楽しいなぁ、という期待がありますね。
道路(県道140号線)ができてから、のちのち、砕石というわけではないですけど、埋め立て用の石を取っていたんだと思います。ここ(自宅)にいても、あの場所から削岩機の音が聞こえることがありましたから。だいぶ土を取っているんですよ。だいぶ平らでしょ。グラウンドのように。あんな形状ではなかったはずなので。相当な量をとって、使ったんだと思うんですよ。でも、まぁ、こちら側の層は残っていますね。

川代へ遊びに行く

(奥さん)子どもたちが小学校の時、子どもたちだけで川代のあそこに遊びに行ってましたね。

-自転車で?

(奥さん)いえいえ、歩いて。

-え!そんな遠くまで!

(奥さん)いまやったら川に行くのが危ないとかいうのに。小学6年の子がもっと小さい子を連れて遊びに行っていたりしたから。ようそんなの(許したなと思う)。いまやったら信じられへんなということが多いです。事故もなく、ねぇ。

信じられへんな。うん。

-でも普段から、このあたりの子どもたちも川遊びに慣れてたんでしょうかね。

(奥さん)まぁね。近くの川(篠山川)で、魚釣りをしたりね。

親かて、(一緒に行かずに)子どもだけで行かしてましたな。女房は神戸ですけれども、高取山の近くなんです。

(奥さん)そうなんです。だから山とか川とか好きなんです。みんな「ようこんなところにお嫁に来たな」いいますけどね、でも、やっぱり、好きなんです。すき焼きやらもしよったねぇ。

そう。妙見山公園でキャンプもしましたもん。そしたらおやじがおどかしに来ましたわ(笑)。まぁ、いうたように、ブランコもあったんですけどね。

(奥さん)もう茂ってしまって。その頃はおじいちゃんが、この辺にある紅葉とか植えてね。きれいになるように、ということでしょうね。

自分が勝手にね、仕事の合間に整備をしおってね。だから身近な山やったんや、本当に。

(奥さん)そうやね。長女がね、昭和45年生まれなんですけど。(学校から)帰ってきたときはそこら辺の川、溝、小川でね、手を叩いたら魚が寄ってくるくらいにね、きれいだったんですよ。それがコンクリになってしまって、悲しいみたいなことを作文に書いたんですよ。その作文をもとにして、「少年の主張」に出ましたね。そのころからね、溝やらから魚がいなくなったんだな、って思うんです。

-いまから30年前、くらいのお話ですよね。昭和60年頃でしょうか。

そうですね。(川や山が)家の庭の延長、という感じですね。遊ぶといえば、お正月からそり滑りなんかもして。お正月って大体みなさらの服を親は出してくれるんですけれども、古いの出してくれって頼んで、新しいのを着て汚したら怒られるからね。そんな古いのを着て走り回ったりしてましたからね。

(奥さん)だからね、孫もね。走り回ったりしてますよね。田舎はね、好きですよね。
こっちがわに、木からひもをぶら下げるだけなんですけどね、ブランコを作ってくれたりね。おじいちゃんが。そうですね。あと竹切ってきてそうめん流ししようかとか。そういう自然が残っているから。ただもう、わたしらが年取ってきたら。この庭も…。大した庭じゃないんですよ。(でも放っておいたら)草まみれになってしまうし。お父さんが植木屋さんできなくなったらどうなってしまうやろなと。

いまは私が全部やってますけどね。高い木は短くせんとダメやなとか。いまでも落ちたらいけないから、もっと木を低くしようかとかね。うん。

川代とつながる・大山とつながる

-こちらに修験の山、栗柄山、御嶽山、とありますけれども、その山に登るということはなかったですか?

小学校時代は必ず上っていました。その頃の小学校はいまの西紀小学校とは創立記念日は違うかもしれませんが、そのころの5月何日か…。創立記念日に、小学5、6年生は御嶽山。で、3、4年生は夏栗山。1,2年生はほうれんぼう。ユニトピアに抜ける、これだと思います。427メートル。遠足は1、2年生はお大師山。弘誓寺の上にきれいな桜のきれいなところがあるんです。いまでもちょうど88つの石像があるんです。そういうところ行ったりしているんです。
あとは岩屋の観音さん。それが藤岡の奥にある東窟寺のその上ですけどね。この尾根伝いに行ったことがあるんです。このお寺、ここに古墳がありますからね。尾根にもたくさんあるんです。(水源地の工事をしたときにも古墳がだいぶ出たんですけどね。この宮田のこの天神さん、尾崎天満宮いうんですよ。結局ね、ここ、尾根でしょう。尾根の先で、尾崎ということでしょうね。

-お子さんだけで川代の方へ行ってらっしゃったといわれていましたけど。あのあたり、お花見が有名ですよね。

僕が小学校の時の遠足が、篠山川にある川代公園あるでしょ。あそこへ行って。上級生は篠山町の王地山公園へ行っているんですよ。学年に合わせて距離がね。小学1、2年生はお大師さんあたり。(川代の)このあたりに、春になるとボートが出ていましたね。みなさんでお食事されたりとか。山南町の方も来ておられました。

-みなさん、川代へお花見に行くときは車ですか?

遠足は歩いてね。子どもの足で2時間…。今思うとね、歩道もないのにね。よく事故もなしに。車の量も少なかったし。車も気を付けますよね。

-そういう意味では、このあたりに住んでいらっしゃる方も、川代方面に遊びに行っていた思い出があるんですね。

昭和40年、50年代に生まれた子どもたちはよく遠足に行ってました。いまではたぶん行かないでしょうね。だから(私たちの)子どもら(の世代)はきっと「懐かしい」と感じると思います。

-エリア的には、確かに行きやすいですもんね。

大山の方は、山を越えて丹波市山南町阿草方面の方との婚姻があったと思います。
味間よりも大山のつながりは深いですね。私は昭和24年に小学校へ行って、30年に卒業しているんですけど、まだ大山村、草山村、の時代です。昭和30年に西紀村になりましたからね。(町の)合併の話が出たときに、わたしたちは大山は西紀と合併すると思っていたんですよ。完全に。というのが、学芸会はね、単独の学芸会と西北部学芸会と言ってですね、大山小学校・南河内小学校・北河内小学校・草山小学校と一緒にやっていたんですよ。だから意識としてはつながりが強かったんですよ。最終的に丹南町と合併しましたけどね。
大山のひとは、篠山町へ行くのに、この道(街道)を通ったんです。だから大山の方は、宮田の誓文払いへ来ていましたよ。宮田恵比須という神社があるんですけれど、1月10日にお参りするんです。当時はずっとここに、お参りしてくださってた。非常に密だったですね。

-城下町の方に行く用事はありましたか?

高校の時はね自転車で行きますけど。あとは買い物と言えば篠山です。誓文払いね。
丹波市は佐治とか成松とか拠点が分かれているでしょ。でも篠山は文教も経済もみんな篠山ですよね。なんでも篠山です。