池田忠広 教授

県立人と自然の博物館  主任研究員

 

◆文集に書いた「古生物学者」の夢

-先生が古生物学者を目指したきっかけを教えてください。

子どもの時から、生物とか古生物に興味があってね。毛利衛(日本初の宇宙飛行士)がキャスターになってやっていたNHKのテレビ番組「生命40億年はるかな旅」(1994年~95年)をみて、これ面白そう!って。小学校の卒業文集に「将来の夢は古生物学者」だと書いてましたからね。

とはいえ、実は高校時代は防衛大学校に行きたくてね(笑)。なんでかといったら、当時やってた映画の「トップガン」(1986年公開)にあこがれた。すごいミーハーでしょ。F14、トムキャット乗りたいな、かっこいいな飛行機乗り、って。転機になったのは高校1年の終わり。2年次になると、理科の選択科目の必要があったんですよ、物理か生物か。防衛大学校、受験科目で物理は必須なんですよ。でも私は物理が嫌いでね。高校1年次に先生に「自分、今の成績で防大行けますかね?」って聞いたら、「五分五分だね」って。そうか、五分五分のために嫌いな物理を勉強したくないな、じゃ、もう一回、自分、何やりたいっけ?って考えて、あ、古生物やりたいんだわ、って。それで大学を選んだんだよね。でも最初は古生物学が地学の分野であることもわかってなくて、ずっと生物の勉強をしてました。だから、地学は大学に入学してから始めて、専門的に勉強したんですよ。

-大学で古生物を学ぶことになったんですね。

そう。ただ、「化石を研究しよう」と思っても、まぁ、そうスムーズには行かなかった。所属することになった研究室の先生も、手取り足取り教えてくれるわけじゃないし、「もし恐竜を研究したいならアメリカだよ」なんて言われて。じゃ、何ができますか、ここで、と教授に聞いたら「これなんてどう?」って、ヘビ(の化石)を渡された。ちょうどその先生はヘビが苦手だったらしくて。自分の最初の研究テーマは、だから、ヘビなんですよね。

◆悩みながら研究する院生時代

-具体的に、大学院生時代はどんな研究をされていましたか?

琉球列島の更新統(地質年代のひとつで約258万年前から約1万1700年前までの期間)の地層から発見されている、ヘビ化石の研究ですね。琉球列島は大陸とつながったり離れたりを繰り返して複雑に形成された島々です。固有種(ある地域だけに生息する種)がたくさん生息しているエリアなんだけども、その特異な生物相が形成された「過程」については今でも多くの議論があります。そこでは、分子情報をもとにした、信頼性の高い研究が精力的に行われているんですが、ここで重要になるのは、「過去の生物の直接的な証拠」、つまり「化石」なんですね。

そのなかのひとつの分野として、第四紀の「ヘビ」の研究を任された(押し付けられたに近いかも?)んです。

-それはどのように研究を進めていくんですか?

それも実は手探りでやっていたんです。研究の背景や手法などを記している日本語の論文、書籍はまったくなかった。だから同じ研究室の先輩だった髙橋亮雄さん(現 岡山理科大学教授)に教えてもらいながら、論文を読んで勉強したり議論したり、ほんとうに手探りで…。先行研究を見ながら、その成果に疑問をもちながら、私なりに手探りで手法を確立していったんですね。ただ、それは所詮、大学院生が試行錯誤しながら、悩みながら、議論しながら、という感じで、研究のやり方を自分たちなりに積み上げていったものなので、ほんとうにそれで正しいのか評価してくれる人がいなかった。そんな中で、爬虫両棲類学会で発表しようってなって、そこにちょうど太田先生(現 人と自然の博物館主任研究員)がおられてね、「これでいきなさい。だいじょうぶ」って言ってもらえて、そこで本当にホッとしたってことがありましたね。

-研究手法としてはどのようなものだったんですか?

非常に古典的なことをしてるんですよ。その当時も、化石研究でも統計解析したりとか、CT使って、とか、最新技術も駆使したものがたくさんあったわけ。でも僕らは単純にいま生きてる動物の骨を集めて――「アルファタクソミー(アルファ分類学)」て言うんですけど――その骨(化石)にどんな特徴があるかを調べて、それを体系ごとに整理して、そこから得られたデータを元に化石が何なのかを特定する。非常に地道な仕事をしていました。

やっぱり学生なんで、自分たちがどのレベルでやれているかってわからんわけですよ。しかも僕らは鹿児島大学という非常に「中央(いわゆる帝国大学)」から離れたところにいたから、例えば京都大学にいたら学生も多いし、他大学との相互交流が盛んでディスカッションがあったりするし、いろんな先生方の繋がりがある。僕らの周りはそんな環境ではなくて、非常に悩みながら、自分たちを疑いながら。「自分たちがやってる学問が本当にこれ大丈夫か。これで世界に太刀打ちできるのか?」とかそういうのを悩みながらずっとやっていたから。

◆ひとはくに就職する

-とにかく試行錯誤ではあったけれど、無事に博士号が取れた。そのあとは琉球大学で研究されていましたね。

そうそう。最低限、博士号は取ろうと。でもそのあとのことは考えていなくて。博士号取れたら、とりあえず大学に行った意味はあったかな、と。高校の先生の教職免許はとったけどもね。まぁ、そのときは自分みたいなレベルだったら、研究職には就けないだろうと思っていて。だから30歳くらいになってもポスト(研究職)につけなかったら、(古生物を)辞めようと思ってた。

でもそのときにたまたま「兵庫県の人と自然の博物館というところで、こんなポストの募集があるよ」ってお世話になった先生から情報が流れてきて。そんなに深く考えずに応募した(笑)。しかも募集要項に「恐竜化石」って書いてある。自分には関係ないじゃん、とか思いながらだったけど。でもまぁ、通常こういった研究ポストだったら20~30人は殺到するだろうけど、そのときは5人くらいだったかな?筆記試験も、全然できなくて。教養試験も全然だめだし。あ、オレ、ダメだわって(笑)。面接でも「あの、自分、恐竜に特別興味ないです」とか言ってた。それでも「発掘はできますか」って聞かれて、「それは学生時代にいろいろやってますから、できます。体力だけは自信があります」って答えたのは覚えてる。

結果的に受かったんだけども、三枝さん(三枝春生先生)は、自分が大学院生の時に出したヘビの論文(単著)を読んで「こいつは基礎分類ができるぞ」って評価してくれたみたいだけどもね。

-じゃ、受かったと聞いたときは驚いた。

え、受かったの?みたいな。え、マジっすか?ってなったよ。ポストなんて取れないと思ってたのに取れたから、これはもう、死に物狂いでやらなくちゃって。任期付きのポストだから、まずは必要とされる人間になろうって。だからひとはくに来て3年間は必死でした。ほんと、そのころの記憶は、今でもないくらいですよ。

◆白亜紀の化石を研究する

-それまでは第四紀の古生物を対象に研究していたのに、ひとはくへ来たら白亜紀の化石を研究することになりましたね。

やっぱりね、知識は深くなりましたよ。それまでは現生生物と更新世ぐらいのことしか見てなかったけど、中生代のトカゲやカエルをやることによって、これらの生物の系統進化のパターンとか、今までとは異なる時代・分類群になるわけで、一からの勉強でした。

丹波竜の研究をしていく中でも最初はね、「なんか小さい化石が出てくるな」くらいだったらしいんですよ。それが本格的にトカゲの骨が出始めて、そして勉強していくなかで、カエルの骨であることがわかって。躊躇なく研究できたのは、ヘビの研究で自分の中にできていた「基礎」みたいなものがあったからね、応用が効いたんだと思ってる。

-「次はトカゲ、カエルを研究して」と言われて、え?とはならなかった?

最初の(大学時代の教授に言われた)ヘビと一緒ですよ。「やれ」って言われたら、「はい。わかりました」って。「やります」って。それはわりとサラリーマン的で、僕は。もともとだれも手をつけなかったヘビ化石をやっていて、どんな材料にも研究の面白さが必ずあると思った。だから、迷うことなくそれまでとは違う領域の研究が出来たんだと思う。しかもここで生き残っていくためには、与えられた課題をこなすのは必須だしね。それに研究者として生き残るんだったら、研究の幅を広げる必要があると思っていたし。まぁ、研究者の端くれなので、やり始めたらなんでも面白いですよ。

◆世界水準の剖出技術

-トカゲやカエルなど小さな化石を研究しようと思ったら、やっぱり剖出技師の人たちの技術力の高さも重要ですね。

だいぶ無茶を言いましたからね。ハードルを少しずつ上げていって。やっぱり三枝さんがすごくこだわる人だったので。普通、恐竜化石のクリーニング(剖出)ってあそこまで繊細にやらないですよ。

やっぱり「恐竜化石」って世間が注目する、剖出された化石そのものが「世の中に出る」ことも多いじゃないですか。写真もいろんなメディアに掲載されるしね。初期に剖出した化石なんかは、穴ぼこだらけのやついっぱいあるんですよ。でもそういうのは、(三枝先生)本人的には、カッコ悪いってのもあったんじゃないかな。それにモノをちゃんと調べるときには、やっぱりキレイなものを見たいので、そこに対してより多分、要求は…これやってこれやってみたいなのは増えていった。

そして剖出をしていく過程の中で、小さい化石が出てきたから「これどこまでできる?」ていう話の中で、限界までやってくれみたいな話を始めたんだよね。「ちょっとこっちまで見たい」と言ったら、みなさん(剖出技師の人たち)、一応やれるから、だんだんと「これやれるんだったら、こっちもできるでしょ」みたいな。

そもそも、それまで僕は化石の研究の中で、あんまりクリーニングってしてないんですよ。酸で石灰岩を溶かして、化石を拾い出すことがほとんど。だから、物理的なクリーニングの経験って僕あまりないんですよ。普通の研究者だったら「壊れるかもしれないからもういいよ」「CTでデータを取るからいいよ」とか言ってたかもしれない。でもたまたま篠山層群の岩石成分だと、CTで撮りにくいんですよ。きれいにクリアに分からないので、やっぱり物理的にやる(化石を岩石から削り出す)必要があるんですよね。私は剖出技師の人たちに仕事をお願いするときには、全幅の信頼を置いてるのでね。

そういう意味では三枝さんも最終的には技師の方々にすごく高い要求はしてるんだけど、それが当たり前になってきてて、勝手にひとはくの化石剖出技術が世界水準になったと思う。

僕らが「より良い標本を見たい」って言ってる中で努力していただいて集まってる人たちが、元々技能がレベル高かったんだよね。

「よりきれいに剖出した方がいい」っていうのは、そこはたぶん、ここが博物館だからだと思う。展示っていうのを考えるから、研究だけを考えたらぶっちゃけ、CTで見れればなんの問題もないしね。

◆研究は100年後も続く

-研究が進む篠山層群ですが、今後の展望はありますか?

学術的なフェーズでもう少し「研究」が深まるのは、やっぱり今後新しい人も入って篠山層群に関する新しい知見が加わる必要があると思う。知見がつみ重ならないと、深い議論はできない。

だから、いま岡山理科大の先生方とと一緒に研究をやり始めてるし、やっぱりそういった「共同研究体」を作っていって、ここ(ひとはく)だけじゃなくて、他の分野の人や知見も交えて議論していかないと広がりがない。

例えば「どうして篠山層群のトカゲはこんなに種多様性(生物群集にさまざまな生物種が共存している様子)が高いのか」ってことすら、全くわかってませんからね。そしてこの「多様性の高さ」って、どの地域とどのような共通性があるのかとか、トカゲのグループのオリジン(起源)を探るというのは、もう少し知識を広げないと確度の高い議論を

するのは難しいかなと。だから、いろんな分野の人がいて、こういう見方だったらこういうこと言えるかもしれないという意見や、ディスカッションが出ないと、研究分野自体が行き詰まるだろうなと思ってる。

-そういった中で、ご自身のスタンスも変わってくるんでしょうか。

だから、そのためのチームビルドをするのが私の仕事かなと思ってますけどね。

いろんな材料を研究して成果を出して欲しいと僕はよく言うんだけど。面白い研究や議論をするためには、それぞれの研究者が持ってる力を結集しないとダメですよね。

-こういう研究の流れって、他の化石産地でもやはり同じような経緯をたどるんでしょうか。

だと思いますよ。最初はいきなり恐竜が出て「わー!」となります。そして、いろんな化石がそのあと見つかってくる。点が面的な広がりになっていって、いろいろな分野からみた新たな知見がもたらされて、議論の場ができる。うち(ひとはく)の目指すべきことはまずやっぱり篠山層群全体を理解すること。そして、地質学的な観点も加えたうえで、日本だけじゃなく世界的な視野で研究成果の意味を評価して、発信する必要がありますよね。そしてその中でアジア地域全体の中生代における環境変遷とか、そういうことが議論できるかもしれない。

-何年タームくらいを想定するんですか、その研究期間としては。

いや、僕が死ぬまで終わんないですよ。というか、死んでも終わらない。研究に終わりはないんです。アメリカやモンゴルの恐竜化石研究は100年以上続いていて、今でもそれは終わってないし。そういうもんです。

(取材日:2024年2月2日)