1億数千前の小さな虫が
“その証を残していた”と
言ってあげたい
足立 冽(丹波竜第一発見者)
「丹波竜化石」発見者のひとりである足立冽さん。
足立さんは2006年8月に、丹波市山南町で丹波竜化石を村上茂さんと共に発見。その後、2007年10月には篠山市内の宮田の篠山層群にて新たな骨化石を発見した(以後、宮田で見つかった化石の一部がほ乳類化石「サヤマミロス カワイイ」であった)。
篠山層群から恐竜化石が発見されたことは、ただの「偶然」だったのか?
子どもの頃から考古学に興味を持ち、ご自身曰く「下を見て歩くのが好き」な少年だった足立さん。考古学への興味から、ひょんなきっかけで出会った地学・地質の世界。そして30年以上篠山層群を見続けてきた、その熱意の源泉について、生い立ちから順にお話を伺った。
岡山県美作地方生まれ。小学5年の頃から「考古学」が好きになり、中学校では「郷土研究部」を立ち上げた。将来は考古学者になりたいという夢を持ち始める。
「岡山県美作地方の小学5年生の時、教頭先生に木製のトランクに入った石器や土器を見せてもらった。これが私の考古学との関わりの始まりである。(中略)中学に入ると考古学に夢中になった。勉強はそっちのけで土曜、日曜は遺跡を探して郡内を歩き回った。」
「美作には「月の輪古墳」という古墳がある。日本では戦後初めて研究者と民間人が協力して発掘調査をしたことで、考古学史上有名である。中学1年の時に学校からその古墳の見学に行った。発掘のリーダーの中に岡山大学考古学教室の近藤義郎という若い考古学者がおられた。私は、その先生に憧れて、お尻にくっついてまわった。」
以上、〔恐竜化石との出会い12〕
子供時代
例えば土器でいえば、多くの人は土器の形なんかを研究しますね。でもわたしが好きなのはそこの中に生きているもの…『生命の証』(例えば指紋など)をみつけ、そこからいろいろと想像を広げることです。たぶんロマンティックなんですね。ですから、気質としては決して科学者ではない。
考古学が好きだったから、中学に入った時に自分で郷土史研究部というのを立ち上げたんです。社会科の先生に顧問をお願いしたら、よしやってやろう、と。週末ごとに6~7人の仲間を連れて山や畑を歩き回っていました。
僕は子どもの頃に出会った近藤義郎という考古学の先生に、大きく影響を受けました。その方は、備前備中の古代について研究されていた方です。先生が昭和27年に「月の輪古墳」の発掘調査をしたんですね。それまでは学者や学生が発掘作業をしていましたが、そこではわざわざ地域の人たちと一緒に発掘調査を行ったんです。そこから一般の人たちが発掘に参加するようになった(映画にもなっています)。私が丹波で発掘調査に参加しているときも、そういうワクワク感があったんですね。近藤先生が関わった(月の輪古墳とは)別の発掘現場に僕も参加したことがあるんです。子どもたちが仮面ライダーのヒーローに憧れるでしょ、僕にとってのヒーローは近藤先生です。
-どんなところが「ヒーロー」でしたか?
それはね、いままでされていなかった一般参加型の古墳発掘をされたということですね。僕らのような子どもにも実際に掘らせてくれるんですよ。貴重なものですよ。「ここを掘ってごらん」と言ってね。僕自身の体験としてドキドキしましたけれども、日本広しといえどもそんな体験させてくれる場所はなかったですよ。
中学2年の頃、学校教師を定年退職して間もない父親が事故で亡くなった。7人の子どもを食べさせていくため、母の苦労が始まる。高校卒業後、貿易会社に勤務。34歳の時、兵庫県の高校教師(英語)に採用。6年間は阪神間の高校で勤務した。そして1983年、県立篠山鳳鳴高校に着任。1年生の担任になった。そこで1年生の地理地学実習(フィールドワーク)の引率として初めて篠山層群へ行った。
篠山鳳鳴高校での取り組み
当時鳳鳴高校にいらっしゃった理科の西脇先生、社会科の近成先生が協働して、1年生が全員参加する「地理地学実習」という取り組みをされていました。西脇先生が地層に詳しい方で、いろいろなことを私に教えてくださった。もちろん篠山層群のことも教えていただきました。
地理地学実習というのはいわゆる「フィールドワーク」「野外学習」ですね。子どもたちを班に分けて、それぞれの班がテーマごとに学習を進める。例えば篠山の歴史や風俗を調べる。または地理・地学…地層や化石関係もテーマに含まれていました。テーマに沿って事前学習をして、ある1日を決めて全員が弁当を持って出ていく「実習」の日を作るんです。足を運んで実際に確かめてくるんですね。そしてそれが終わったら今度は学校に帰って、図書室で調べて研究発表する。
どこの学校でもあることかもしれませんが、それでも進学校でそういう取り組みはなかなかめずらしい。わたしは担任でしたから、安全のために引率で付いていくんですね。しかしただの引率とはいえ、事前に(地学の)勉強していくわけです。そこでたまたま私が化石を見つけました。それはサンドパイプという化石ですね。川の岩の上にぷつぷつとあった。それで地学の先生に「これはなんですか」と聞いたら、「ほーこれ、きみ、化石じゃないか!」と。「へぇ、これが化石なんですか」と。
場所は…丹南橋がありますね。JRと国道が交差したところね。あの真下が-いまはダムができてなくなりましたが-岩場があったんですよ。その岩場が篠山層群でね。その時に見つけたサンドパイプを広島大学に送ってもらって調べてもらったら、間違いないということで、そこにサンドパイプがニョキニョキとあるということが分かったんです。
野外学習の日は、丹南橋周辺だけではなく、子どもたちはバスで下滝の方へ行きました。下滝まで行って、そこでまた勉強(フィールド学習)して。先生が生痕化石…例えばミミズのような生きものが這った跡を見つけて解説してくださったり。すごく面白い体験でした。
しかもそれは1億4万年前のものだというから、さらに驚きました。僕はいままで3000年、4000年前のことに興味をもっていたけれど、まったく違う時間の話なんだな、と。考えてみたら理科と社会の違いなんですね。理科と社会の違いということは、人間に関係しているかどうかということ。人間の力の及ばないことを扱うのが理科ですから。サンドパイプの発見で、その本質に初めて直にふれた気がしました。
以後、高校の教師をしながら、篠山層群の観察や地学の勉強などを続ける日々。特に「プレートテクトニクス」理論を知った時の衝撃は今でも覚えている。
「1991年4月、勤めていた篠山鳳鳴高校に石川龍彦という若い物理の教師が赴任してきた。京都大学理学部卒のハンサムな人で、登山が得意なほか、うれしいことに化石が大好きであった。海外で収集したものも含め、たくさんの化石を持っていた。地学に関する本を貸してくれ(中略)ちょうどその頃私が関心を持ち始めた「プレートテクトニクス理論」など、新しい学問の進歩についても様々なことを教えてくれた。彼との出会いはその後の私の人生に大きな影響を与えることになった。」〔恐竜化石との出会い⑫〕
2004年3月 定年退職。「講師をしながら、畑を借りて野菜作りを楽しんだ」。
2006年4月 大学時代からの親友である村上茂さんと再会する。その後、「一緒に地層の観察をしないか」と持ち掛ける。
2006年8月 村上茂さんとの2回目の地層観察で、丹波竜発見。
2007年 鳳鳴高校の先生から「興味のある子たちがいるので、篠山層群を案内してほしい」と依頼を受ける。その時に立ち寄った篠山層群(宮田)で骨化石のようなものを発見。それが「ササヤマミロスカワイイ」の発見にもつながった。
雨の日の地層観察
2007年の第1次発掘が終わった頃、鳳鳴高校から「子どもたちを篠山層群に案内してほしい」といわれてね。でもその当日、ちょうど雨が降っていたんです。なので、「先生やめませんか」と引率の先生に言ったんです。でも中間考査が近づいてきていてね、「いまやめるとスケジュールにいろいろ響く」と言われてね。「じゃ、やりましょうか」と決行しました。結果的にそれがよかったんです。
地層観察を始めて間もなく、私は足元にマッチの穂先ほどの青い円柱形の少し気になるものを発見しました。
その空き地は元々自動車解体工場だったのでビニールの被覆のついた銅線がよく落ちていたんです。拾い上げて見るとそれにそっくりなんです。青いビニールの被覆の中に赤っぽい銅線の芯が通っているように見えたんです。でも、指先で強くつまんでみると、石のように固いんです。それでビクッとしましてね。だけど、子どもたちがサンドパイプを探しているんですよ。
同行していた先生が地学の先生だったんですね。その先生に「これ、ひょっとしたら化石のようなんですが、これを子どもたちが知ったら、万が一口外するとまた人がやってくるので、これは言わないでください。僕が持って帰って調べてみますので」と言ったんです。
当日はルーペも持っていました。ところがレンズの間に水が入ると全く使い物にならないんですね。役に立たないんです。家に持って帰ってからみたら、間違いなく骨だったんですね。外側は薄いブルー。かなりきれいなブルーでしてね。雨に濡れるでしょ。濡れるとブルーが濃くなる。地層は赤いからよく差が分かった。
1983年から篠山層群を観察し続けてきて、特に宮田は自宅から勤務先(鳳鳴高校)への通勤経路でしたから、常に気になって何度も足を運んだ場所でした。それが、なぜこのタイミングが見つかったのか…。不思議ですね。
-積み重ねの勝利ですね。ずっと篠山層群に注目し続けてこられて。
そうとしか思えないんですね。
2007年当時は鳳鳴高校に勤めなくなっていたので、化石を含んだその地層がいつから見え始めていたのかわかりませんけどね。例えば1年間でひと冬終わったら、凍結して、溶けて…風化して、年に数センチは削れているのかもしれませんね。それが長い間、20数年間見ている間にやっと到達したということかもしれません。
宮田の地には「篠山市立太古の生きもの市民研究所」が設置され、発掘された篠山層群の岩石の剖出・調査活動が進んだ。そして、2017年4月1日より施設は兵庫県立丹波並木道中央公園に移転。展示室も設けた新たな施設としてオープンした。
足立さんご自身も、多くの方に向けた講演・啓発活動を続けている。
活動を通して見えてくるのは、足立さんが持つ「生命の証」を探し求める無限の想像力と、太古の生きものたちへの優しい眼差しだ。
エコツアーを受け持つ
兵庫県丹波県民局が「エコツアー」を2007年か2008年に始めたんです。
最終的には丹波市の丹波自然学校に行く阪神間の子どもたちを対象に、事前学習から当日の案内までの学習プログラムを受け持つことになりました。それを2009年から14年くらいまで5年間担当したんです。毎年1000人くらい。全部で7000~8000人くらい参加してくれました。例えば、最初の座学を学校でさせてほしいとお願いしました。家内と2人で学校に行ってね。じゃ今度、丹波でお会いしましょうと言って次は現場で会っていたんですね。
いまは小学生に教えることはないんです。でも高齢者大学は10年間行っているところがあります。例えば「兵庫県いなみ野学園(公益財団法人 兵庫県生きがい創造協会)」ですね。ここは全部で1000人くらいいるのかな。もうひとつは「兵庫県阪神シニアカレッジ(宝塚)」。1学年100人、全部のコースを合わせると500人くらいですね。毎年秋に90分2回の講義をします。「わたしはロマンを語るだけですよ」と。どちらも勉強したくて来られていますから、熱心ですよ。
これからは、特に若者を育てなければいけないですね。そのためにも、自分が体験したこと、知識を残していきたいし、伝えていきたいなと思います。恐竜発掘、丹波竜の発掘をした人間は20年経ったら人博の記録にしか残らない。本当に体験したことを詳細に書き残したものが必要だと思います。
例えば、ボランティアを養成するのも必要ですね。知識の持ったボランティアですよね。興味を持っている人はいくらでもいる。手を貸そうとする人は多いと思います。そこで大事なのは「ここを掘っているのは1億1千万年の時を経ているんだ」というワクワク感、そしてそれを感じるための感性を育てることですね。そのためには多くの人の力を借りる必要があるでしょう。
篠山層群のすばらしさは、保存状態の良さ。陸成層で且つ同じ年代の地層が世界的にも少ないこと。そして、わたしたちの生活をしているすぐ足元、家の裏山、神社の境内に、その地層があるということも大きな価値だと感じます。
いまも、1億1千万年前のご先祖と一緒に私たちが暮らしているなんて考えられないですよね。わたしはそれだけ思っただけでも、背中がゾクゾクとして楽しいんですけどね。だからもっとそういうところをクローズアップしてわかりやすく楽しめるもの、現代のわたしたちを理解するのに必要なもの-わたしたちの先祖のもっともっと古くはネズミのような姿だったんだ、恐竜と共にわたしたちの先祖が生きていた-がもっと住んでいる人たちにも伝わっていいと感じています。
恐竜や生きものの骨の化石というのは、多くの人にとっては面白いでしょう。でも私のように生命の痕跡を求めてきている人は、ほとんどいないのかもしれませんね。私にとっては「命の証」を探して歩くのが本当に楽しんですね。例えば生痕化石は「虫が這った後だと思われる」-「思われる」というのは、それはどこにも証拠がないからなんですが、だろうと思われるものをじっと見ていると-1億年前のちっちゃな生命が、ここでうごめいていた、一体何をしていたんだろう、どんな身体をしていたんだろう…想像が止まりませんね。わたしら死んだら数十年でなくなってしまうんですよ。墓石だって片づけてしまうしね。ところが彼らは名もない姿もない、その虫が、1億数千万年前、ここで生きてた、その証がここに残っている、いや、残していると、あえて言ってあげたいですね。