丹波地域恐竜化石フィールドミュージアム

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足立 冽さん

『1億数千前の小さな虫が“その証を残していた”と言ってあげたい』
「丹波竜化石」発見者のひとりである足立冽さん。
足立さんは2006年8月に、丹波市山南町で丹波竜化石を村上茂さんと共に発見。その後、2007年10月には篠山市内の宮田の篠山層群にて新たな骨化石を発見した(以後、宮田で見つかった化石の一部がほ乳類化石「サヤマミロス カワイイ」であった)。

篠山層群から恐竜化石が発見されたことは、ただの「偶然」だったのか?

子どもの頃から考古学に興味を持ち、ご自身曰く「下を見て歩くのが好き」な少年だった足立さん。考古学への興味から、ひょんなきっかけで出会った地学・地質の世界。そして30年以上篠山層群を見続けてきた、その熱意の源泉について、生い立ちから順にお話を伺った。


中学2年の頃、学校教師を定年退職して間もない父親が事故で亡くなった。7人の子どもを食べさせていくため、母の苦労が始まる。高校卒業後、貿易会社に勤務。34歳の時、兵庫県の高校教師(英語)に採用。6年間は阪神間の高校で勤務した。そして1983年、県立篠山鳳鳴高校に着任。1年生の担任になった。そこで1年生の地理地学実習(フィールドワーク)の引率として初めて篠山層群へ行った。

当時鳳鳴高校にいらっしゃった理科の西脇先生、社会科の近成先生が協働して、1年生が全員参加する「地理地学実習」という取り組みをされていました。西脇先生が地層に詳しい方で、いろいろなことを私に教えてくださった。もちろん篠山層群のことも教えていただきました。

地理地学実習というのはいわゆる「フィールドワーク」「野外学習」ですね。子どもたちを班に分けて、それぞれの班がテーマごとに学習を進める。例えば篠山の歴史や風俗を調べる。または地理・地学…地層や化石関係もテーマに含まれていました。テーマに沿って事前学習をして、ある1日を決めて全員が弁当を持って出ていく「実習」の日を作るんです。足を運んで実際に確かめてくるんですね。そしてそれが終わったら今度は学校に帰って、図書室で調べて研究発表する。

どこの学校でもあることかもしれませんが、それでも進学校でそういう取り組みはなかなかめずらしい。わたしは担任でしたから、安全のために引率で付いていくんですね。しかしただの引率とはいえ、事前に(地学の)勉強していくわけです。そこでたまたま私が化石を見つけました。それはサンドパイプという化石ですね。川の岩の上にぷつぷつとあった。それで地学の先生に「これはなんですか」と聞いたら、「ほーこれ、きみ、化石じゃないか!」と。「へぇ、これが化石なんですか」と。

しかもそれは1億4万年前のものだというから、さらに驚きました。僕はいままで3000年、4000年前のことに興味をもっていたけれど、まったく違う時間の話なんだな、と。考えてみたら理科と社会の違いなんですね。理科と社会の違いということは、人間に関係しているかどうかということ。人間の力の及ばないことを扱うのが理科ですから。サンドパイプの発見で、その本質に初めて直にふれた気がしました。


2004年3月 定年退職。「講師をしながら、畑を借りて野菜作りを楽しんだ」。
2006年4月 大学時代からの親友である村上茂さんと再会する。その後、「一緒に地層の観察をしないか」と持ち掛ける。
2006年8月 村上茂さんとの2回目の地層観察で、丹波竜発見。
2007年 鳳鳴高校の先生から「興味のある子たちがいるので、篠山層群を案内してほしい」と依頼を受ける。その時に立ち寄った篠山層群(宮田)で骨化石のようなものを発見。それが「ササヤマミロスカワイイ」の発見にもつながった。



2007年の第1次発掘が終わった頃、鳳鳴高校から「子どもたちを篠山層群に案内してほしい」といわれてね。でもその当日、ちょうど雨が降っていたんです。なので、「先生やめませんか」と引率の先生に言ったんです。でも中間考査が近づいてきていてね、「いまやめるとスケジュールにいろいろ響く」と言われてね。「じゃ、やりましょうか」と決行しました。結果的にそれがよかったんです。

地層観察を始めて間もなく、私は足元にマッチの穂先ほどの青い円柱形の少し気になるものを発見しました。その空き地は元々自動車解体工場だったのでビニールの被覆のついた銅線がよく落ちていたんです。拾い上げて見るとそれにそっくりなんです。青いビニールの被覆の中に赤っぽい銅線の芯が通っているように見えたんです。でも、指先で強くつまんでみると、石のように固いんです。それでビクッとしましてね。だけど、子どもたちがサンドパイプを探しているんですよ。同行していた先生が地学の先生だったんですね。その先生に「これ、ひょっとしたら化石のようなんですが、これを子どもたちが知ったら、万が一口外するとまた人がやってくるので、これは言わないでください。僕が持って帰って調べてみますので」と言ったんです。当日はルーペも持っていました。ところがレンズの間に水が入ると全く使い物にならないんですね。役に立たないんです。家に持って帰ってからみたら、間違いなく骨だったんですね。外側は薄いブルー。かなりきれいなブルーでしてね。雨に濡れるでしょ。濡れるとブルーが濃くなる。地層は赤いからよく差が分かった。

1983年から篠山層群を観察し続けてきて、特に宮田は自宅から勤務先(鳳鳴高校)への通勤経路でしたから、常に気になって何度も足を運んだ場所でした。それが、なぜこのタイミングが見つかったのか…。不思議ですね。


宮田の地には「篠山市立太古の生きもの市民研究所」が設置され、発掘された篠山層群の岩石の剖出・調査活動が進んだ。そして、2017年4月1日より施設は兵庫県立丹波並木道中央公園に移転。展示室も設けた新たな施設としてオープンした。


足立さんご自身も、多くの方に向けた講演・啓発活動を続けている。 活動を通して見えてくるのは、足立さんが持つ「生命の証」を探し求める無限の想像力と、太古の生きものたちへの優しい眼差しだ。


篠山層群のすばらしさは、保存状態の良さ。陸成層で且つ同じ年代の地層が世界的にも少ないこと。そして、わたしたちの生活をしているすぐ足元、家の裏山、神社の境内に、その地層があるということも大きな価値だと感じます。

いまも、1億1千万年前のご先祖と一緒に私たちが暮らしているなんて考えられないですよね。わたしはそれだけ思っただけでも、背中がゾクゾクとして楽しいんですけどね。だからもっとそういうところをクローズアップしてわかりやすく楽しめるもの、現代のわたしたちを理解するのに必要なもの-わたしたちの先祖のもっともっと古くはネズミのような姿だったんだ、恐竜と共にわたしたちの先祖が生きていた-がもっと住んでいる人たちにも伝わっていいと感じています。


恐竜や生きものの骨の化石というのは、多くの人にとっては面白いでしょう。でも私のように生命の痕跡を求めてきている人は、ほとんどいないのかもしれませんね。私にとっては「命の証」を探して歩くのが本当に楽しいんですね。例えば生痕化石は「虫が這った後だと思われる」-「思われる」というのは、それはどこにも証拠がないからなんですが、だろうと思われるものをじっと見ていると-1億年前のちっちゃな生命が、ここでうごめいていた、一体何をしていたんだろう、どんな身体をしていたんだろう…想像が止まりませんね。わたしら死んだら数十年でなくなってしまうんですよ。墓石だって片づけてしまうしね。ところが彼らは名もない姿もない、その虫が、1億数千万年前、ここで生きてた、その証がここに残っている、いや、残していると、あえて言ってあげたいですね。

村上 茂さん

『これが恐竜だったら、えらいことや』

丹波竜(学名:タンバティタニス・アミキティアエ)の第一発見者のおひとり、村上茂さんに発見した日のお話し、そしてその化石を博物館へ持ち込んだ日の「騒動」について、お話しをお聞きしました。村上さんは「元気村かみくげ」の理事でもあり、いまも様々な場所で恐竜についての解説をされています。

その日(恐竜化石を見つけた日)はカメラも一応持って、長靴はいてね。山とか川とか行ったんですよ。地層や岩石調べたりね。そして昼からは篠山川の方へ降りようかと。じゃ、この辺で生痕化石のサンドパイプでも探そうかというときに、目の前の地層の壁に約8センチ6センチくらいの楕円形の模様のようなものが見えた。くっついているだけであれば、指でポンポンとしたら落ちるかなと思ったんです。ところが落ちないで、触っているうちにパラパラ周りが落ちてしまうんです。そして棒状の異物がどんどん奥に入っていっているのが見えた。で、何だろうと思って隣にいた足立冽を呼んでね、おいちょっと来てくれと。これもサンドパイプかなぁ、と。ええ!大きいのうと。それで、そいつをぴゅっとひっぱったらスポッと取れたんですよ。でもその先をのぞいたら同じ続きがまだあるんです。ハンマーでもうちょっと掘っていって、しゅっとひっぱったらまた取れちゃったんですよ。これで2本ね。あれ抜けた!ゆうてね。これで終わりやーと思ったら、まだ奥にあるんですよ。なんだかよく分からなった。

私はこれはね、木炭に見えたんですよ。叩いてみたらね、キンキンと音がするんですね。木琴みたいなね。珪化木(木の化石)かな、という話もしてたんですよ。彼は「じゃ、もっとよく調べてみるわー」と持って帰って…その日の夜の8時くらいかな。電話で「おい村上、すぐに来てくれやい」と。それで僕、車で柏原の彼の家まで行ったんですよ。

「あれ、どうやら木じゃないよ。なんかの骨のような感じがする」と彼が言うわけです。あの地層は1億2000~4000万年と当時は言われていたんですよ。形や大きさを見てもね、亀にもワニにもこんなにストンとまっすぐで長い骨を持っているのはいない。それ以外の大きな動物ってなんやというたら、恐竜以外はいないんですよ。

-そして、その骨を翌々日に兵庫県立人と自然の博物館に持ち込まれた。

そうそう。私も彼も博物館へ行くのも、博物館で研究者に会うのも初めてでしたから。三枝先生が僕らの待っているテーブルに来られて、僕らは早速「見てください」「恐竜の骨だと思うんですけどね」と、タオルで包んで小さなかごに入れた化石を出したわけです。こういう人はよくあるらしいんです。だからすぐには見てくれないんですよ。話だけで3分4分かかってね。その時間の長いこと。僕らはやきもきしましたね。そうして、やっとタオルの包みから取り出してぱっと見てくれましたわ。4本あるんですよ。その中の2本取って、すぐにね、先生が「これ、恐竜ですよ!」と。

-その時、どんなお気持ちでした?

僕たちは恐竜かもしれんなぁ、そうだったときはどうなるかな。と心の準備までして行ってたわけですよね。ひょっとしたらテレビに出るかもしれないな、新聞に出るかもしれないな、とか(笑)。(だから)ホッとしたというか、嬉しかった。良かったなぁ、と。それが正直な気持ちですわ。

仮に(発見した)現場ですぐに先生が言ってくれたらもっと感動したかもしれないけどね。でも僕らは一旦持ち帰って彼自身がで本や図鑑で調べて…ある程度の確証を得てから行ってましたから。

常岡 芳朗さん

『地元住民主催の発掘調査で「卵化石」が見つかった』

ここ丹波市山南町で2006年8月に丹波竜の化石が見つかり、2016年で満10年になりました。

本格的な化石の発掘調査が始まったのが、発見翌年の2007年から。この発掘調査は人と自然の博物館が主催して、丹波市、地域のボランティアが協働して実施していました。初回の2007年1月から毎年冬に調査が行われて2011年~2012年の第6次発掘調査まで済んだ時点で人博の先生曰く「たぶん丹波竜が埋まっていた場所からは大きな化石はもう出ない」と。残念ですが、その第6次発掘調査が人博主催発掘調査の最後になりました。

地元地域としては、「発掘調査が済んでしまったから、もう新しい発見はここから出てこない」ということになるのは、あまりにも残念だ、という想いがありました。そこで「人博主催でもう発掘査ができないのであれば、地元主催で試掘調査をしよう」ということになり、2014年から恐竜化石が出た地層の近くを調査する活動が始まったんです。1回目が2014年8月29日~31日(公開試掘調査)。そして2回目は2015年の3月。3回目が同年10月です。3回目の時に恐竜の卵化石が密集した状態で見つかりました。

卵化石が見つかった場所は、公開試掘調査の時に人博の先生たちから「この辺は化石の密度が薄いんじゃないか」「あんまり見つからないんじゃないの」と話があったような現場でした。だから先生たちは(地元主催の発掘調査の時も)期待薄で現場に来たようですけどね。でも実際にそういうものがポンと見つかった。本当に驚きました。

やっぱり地元が主催で発信し続けておかないと、上久下地域の化石に対してよそからの関心が薄れてしまいますよね。だから見つからなくても続けよう、と。今年(2016年)も12月の初めにやりますよ。

わたしが発掘のボランティアに参加し始めたのが、60歳で定年退職してからです。時期でいうとちょうど第5次発掘の時(2010年~2011年)ですね。その時にいきなり削岩機を持ってね、現場の下の方に降りて行って岩をガンガン削る作業を手伝ったんですよ。これでもボランティアメンバーの中では若い方だから。

いまやっている発掘ボランティアは、これまでの仕事とは全然関係のないことです。ただ、最初に化石が見つかったというニュースが新聞で発表になった時は、会社の営業所のみんなに朝礼で教えました。それはまだ退職する2~3年前くらいの話ですね。でも実際は、現場を見に行きもしなかったですよ。仕事で忙しかったからね。

自分が初めて参加した第5次発掘調査の時は、やまほどいろんな化石が出ましたね。でも第6次発掘のころはあまり出なかった。第1次~第3次発掘調査くらいまでは、大きな化石をメインで扱っていたように聞いています。でもその頃(第5次発掘当時)はカエルとか小さい化石も気にしていた時期でしたから、そういう小さいものの見分け方も教えてもらいながらね、発掘作業を地道にやっていましたね。

いまは「元気村かみくげ」で発掘体験の指導員をしています。最初から比べると来られるお客さんは増えていますね。隣に恐竜広場ができているでしょ。だから子どもがたくさん来てくれるようになっていますからね。その分、元気村かみくげでの発掘体験に来てくれる人も増えているように感じます。

小学校低学年から幼稚園の子どもさんというは、大体20~30分くらいが集中できる時間の限界かな。そのあとは親御さんがわってやる、という家族もいますよ。

去年(2015年)の11月に、北海道大学の小林(快次)さんやカルガリー大学のカリー先生が、丹波竜フェスタに来てくれました。講演の中でカリー先生が「篠山層群は可能性をいっぱい秘めた化石発見地、宝の山だ」と言ってくれたんですね。それはとてもうれしかったですね。

稲上 好成さん

『目をつぶるといまでもあの光景が浮かびます』

篠山市の西紀町宮田で生まれ育った稲上さん。転勤で、神戸・広島そして大阪に住み、昭和50年からこの地に戻った。お父さんの代には街道筋で豆腐屋をしていたという。自宅の目の前には「妙見山」(太古のいきもの市民研究所がある丘)が見える。今日は宮田で遊んだ子ども時代について教えていただきました。

昔は宮田も結構、積雪がありましてね。坂になっている場所ではソリやスキーで滑って遊んだものです。当時はチャンバラごっこをしたり、ターザンをごっこしたり、動き回っていますので、(このあたりの地形などは)よくわかっています。いまでも目がつぶったら(いまはもう景色が変わっていたとしても)この辺こんな坂やったな、池があったな、とか、記憶が蘇ってくるほどです。そんな「遊び場所」でもあった、宮田から哺乳類化石が発見されたと聞いて、本当に驚きました。西紀南小学校の裏山だって、完全に…あの独特の色なんかを見ると篠山層群ですよね。そういわれてだんだんわかってくると、あの山もそう、あの山も、と。この辺で遊んだ頃はそんなことは全く思いもしなかったですね。

(お家から見える小高い山を指して)ここも篠山層群だと思うんですよ。地元ではこの山は「妙見山(みょうけんやま)」といいます。なぜそういうかというと、妙見さんのお堂があって祀ってあったから。わたしたちの知っているときにはもうお堂はありませんでしたけれどもね。いま(平成28年9月当時)は化石のクリーニング施設(太古の生きもの市民研究所)がありますけれどもね。この山の土は基本的には柔らかくて、子どもが掘ったりしやすい。中にはスコップで掘れるところもあったんですね。子どもの手でもこれくらい、えぐれるんです。そこにね、ビー玉とかちょっと大事な、自分の宝物を隠しておくんです。そうしたらね、後日、とろうとして、中にずっと手を入れるとね。中にね、ムカデが入っていて、手を入れた瞬間にかまれてね。ものすごく腫れましたね。そんな思い出もあるんですよ。

昭和45年10月に、その山に西紀公民館が完成したんですね。いまこそ樹が生えこんでいますが、元々はブランコなんかもあって、妙見山公園と言われていました。当時は低木が植えてあって、サツキやつつじがたくさんあったんですよ。せいぜい松の木が何本かあって、見晴らしのよいところでして、だんだん手入れが良くできなくなって松くい虫で枯れてしまってこういう状況ですけどね。戦争の時は開墾してサツマイモや大根を植えたりしていました。実際、作っていたのを覚えていますね。

ちょっといまは想像もつかないと思いますけどね、ここでも松があってね、こんな山でも結構、松茸が取れました。

私が小学校の時の遠足が、篠山川にある川代公園へ歩いて行きました。子どもの足で2時間…。今思うとね、歩道もないのに、よく事故もなしに行きましたよね。今と比べると車の量も少なかったですけれどもね。上級生は篠山町の王地山公園へ行っているんですよ。学年に合わせて距離が違いました。(川代の)このあたりに、春になるとボートが出ていましたね。昭和40年、50年代に生まれた子どもたちも川代公園(篠山市)にはよく遠足に行ってました。いまではたぶん行かないでしょうね。だから(私たちの)子どもら(の世代)はきっと「懐かしい」と感じると思います。

大久保 省良さん

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『この小さなミュージアムにあることがすごい』

-大久保さんと「地学」の出会いについて教えて下さい。

僕は大分の杵築出身です。「サンドイッチ型城下町」と言われているようなところで、南北の高台に武家が住んで、間のへこんだ部分に商人が住んでいた。国東半島の南の付け根にあって、八坂川と高山川が守江湾に流れ込む河口部に城下町があります。とにかく地形や土地の成り立ちが独特だし、守江湾の湾の中は干潮の時になると大きな干潟(東西約1.5km、南北約2km)が出現する。

-幼少時代の風景の中にすでにその地学に興味を持つ要素があったんですね。

子どものときは、たまに落ちている「寛永通宝」を探したり、他にも川の河口の干潟で生きものを探すのが好きになってよく遊んでいました。ところがそこで河川改修の話しが出てきて、最後は結局工事を強行してしまった…。 その河川改修の計画をする中で実施されていた環境調査に、いろんな大学の先生が来たんですね。例えば福井恐竜博物館初代館長の濱田隆士先生も来られていた。僕が恐竜に目覚めたのはそれがきっかけだったと思います。博物館のできる前の調査に、先生に連れていってもらえたんです。そこで大学生とまじって亀の甲羅なんかを見つけました。そこから地学とか恐竜に興味を持つようになったんです。 河川改修の話し合いの中でも「環境」というキーワードでいろいろ語られることが多かった。でも「環境を守る」とひとことで言ってもそもそも考えるべき範囲がとても大きい。そのとき「環境」という概念の中でいちばん影響力の大きい分野って何かなといったときに…結局自分では「地学」という専門分野を選んだのかなと思います。

-実際のデスクはこちら(ちーたんの館)におありです。業務のメインフィールドも上久下を中心とした丹波市山南町ですね。今年度が活動の2年目ですが、自分がやるべきだなと思う役割みたいなものは、当初とは変わってきましたか?

僕、上久下もちーたんの館もすごいところだと思っていて。最近、さらにじわじわ、そう思い始めたところなんです。 例えば小田隆さんって僕ら世代の恐竜好きからしたら、すごいスーパースターなんですよ。僕がここ(ちーたんの館)にきて、いちばん初めにビックリしたのが、小田さんのサインが置いてあったことですから。 これだけ新しい発見が続いて、日本の恐竜研究を変えるんじゃないかというくらい化石も出てきているので、好きな人はみんな丹波を知っていますよね。例えばこれまで山南の篠山川の現場では計6回、発掘調査をしてきたわけです。でもその後に近くを掘ったら、またすごいのが出てきた。ここはもっと掘ったら出てくるんじゃないか、そういう雰囲気に、いまはなってますよね。 僕はこの丹波を“恐竜を「職業」にはできないけれども、化石好きなアマチュアの人たちが割と気軽に化石を発見するための技術を学べる”ような場所になったらなぁ、と考えているんです。大学の地学部で先輩から後輩に受け継がれているような、フィールドワークの所作を伝える場が作れたらいいですね。

大野 昶さん

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『あの発電所の下から恐竜が発掘されるなんて』

丹波竜(学名:タンバティタニス・アミキティアエ)が発見された現場のほど近くに立つ旧上久下村営上滝発電所記念館。その施設でガイドとして活動する大野さんに、生まれ育った上滝で「恐竜化石」が見つかった時の驚きや、現在の活動についてお聞きしました。 この施設では、大野さんを含めて現在8名のガイドさんが交代で常駐し、お話しを聞かせてくれます。ぜひ「恐竜の見つかった里の暮らし」について、想いをめぐらせてみませんか?

-この発電所の近くで「恐竜化石が発見された」と知った時はどんなお気持ちでしたか?

とにかく小学生の時から中学生の時までここ(篠山川)で泳いでましたからね。昔、子どもの時分に登ったり降りたりして遊んでいた崖…そこから恐竜が見つかったと聞いてね。「え、あんなところから?」という驚きですね。いままで恐竜の化石がここから発掘されるなんて考えもしませんでしたもんね。 2007年の1月から岩の上の部分を取り除いて発掘が始まったら、それはもう、いてもたってもいられなくなって、発掘のボランティアに参加しましたよ。化石の周りを取り除いた岩をハンマーでポンポンと叩いて、「化石がないか探してください」と三枝先生(兵庫県立人と自然の博物館 主任研究員)に言われるからやるんだけども、恐竜のことを全く知らないんだから必死でした。 とはいえ、実際に石割しても、やたら化石はたくさん出えへんのですよ。三枝先生によると「休憩は取りません。適当に休んでおいてください」と。そしたら、20人もいるひとたちが「出た!」「こっちも出た!」とかいうんですよ。まだ僕は出てない。やめられなくなりますわね。絶対に休まれへん(笑)。

発掘は冬の間ですから、春からはずっと何もない。でも記者発表があってからは、いろんな人たちがどんどんこの現場に見学に来られましたから、「発掘ボランティアで来てたもんが、見学に来られた人に話してはどうか」となったんですね。その頃は「元気村かみくげ<平成21(2009)年7月オープン>」もなかったし、それに代わる仕組みや組織もなかったですからね。

-大野さんなりに、施設に来られた方に「まず初めにこんなこと話したいな」ということはおありなんですか?

この施設で今ガイドとして働いているのは8人です。わたしは自分の生活経験とか、そういうようなことをお話ししていますけど、8人いたら8通りのガイドをしていると思うんです。 来て下さった方には、僕が発掘ボランティアをした時に感じたこと…『僕がこの手に触れているこれは、1億何千万年前にできた石なんだ!』という、感動といいますか、ロマンですね。そういうものを感じて帰ってほしい。僕はどんな名前の恐竜がいるというのは今でも分からない。でも恐竜がここで1億何千万年前に生きとったんや、ということを…じっとイメージするだけでも、本当におもしろい。その一言に尽きますね。 ガイドをし始めて思うのはね、「出逢いには『濃淡』がある」ということなんです。人はいろんな時、いろんな場所でいろんな人との『出逢い』を重ねて人生を送りますね。化石ともその『出逢い』のひとつでしょうし、現場に来られて僕がガイドさせてもらう人ともそうでしょう。僕はその『出逢い』をできるならば“濃い”ものにしたいんです。だからこそ少しずつだけれど勉強もすると、来られたひとりひとりの方に合わせながら、僕自身が体感した感動やロマンを伝えていきたいと思っています。

徳川 広和さん

記事タイトルが入ります。

『骨格に“論文”が絡んで、復元模型になっていく』

1974年福岡生まれ。株式会社Actow代表取締役。子ども時代から粘土で恐竜を作るのが大好き。近畿大学経済学部。現在、研究者や博物館からのリクエストで恐竜や古生物の復元模型を作製するほか、ワークショップの企画実施や恐竜関係の書籍の編集アドバイザーなどとして活動中。

-今のお仕事をされるようになったきっかけを教えてください。

子どものころから粘土細工で恐竜を作るのが好きでした。僕の中で「恐竜」と「粘土細工」は、最初からセットなんですよ。「何か(例えば、映画『ジュラシックパーク(1993年)』)を見て衝撃を受けたから『粘土で恐竜を作り始めた』」という記憶はない。あくまで、子どもの時にうちの親が買ってくれた、恐竜と粘土がスタートです。 物心ついた時にはもう「恐竜が好きな自分」だったんですよ。

-復元模型作りで「面白い部分」はどんなところですか?

恐竜の模型やイラストが好きで、自分でも「作ってみたい」からやっているんですけど、もう少しつっこんで考えると、やっぱり自分の中で「資料がまとまっていく感覚」が楽しいからやっているんだと思うんです。 同じ資料を見て作っても、他の人とは違う結果になることもある。同じ資料を元にして同じような立体になるのはしょうがないです。その時はお互いに「良く分かってんな」ということになるわけですが。 「恐竜の復元」となった時、復元画も模型も、まず最初によりどころにするのは「骨」なんです。皮の跡、肉の跡も見つかることもありますけど、基本は骨ですよね。そしてその外見を構成しているものが論文であり研究なんですよ。だから僕の中には、骨があって論文が絡んでいく感じが「復元」というイメージがあります。 もちろんその時には研究の進んでいない部位であったり、恐竜の種類もあるんです。その場合は、骨にまきつく紙(論文)、つまり血肉がないわけですよね。そこは自分の経験と想像力、あとは第一線の研究者たちから訊いた意見や推論で補足するわけです。「あそこの論文はあの部分の研究は進んでいないけど、他の動物の例から考えると『こう思うよ』」とか、研究者の先生たちに聞ける立場に、いまありがたいことにいるので。 もちろん論文があるのが大前提なんですけど、でもそういう、いろんな人の意見を集約できるというのが、僕の感じている模型作りの醍醐味です。

-丹波での恐竜化石発掘現場を見学されたとお聞きしました。どんな印象でしたか?

「まさに今」発掘してる現場を見たのは、丹波が初めてでしたね。(丹波市山南町の篠山川で行われた)第2次発掘っていちばんいいときなんですよね。肋骨とかもいっぱいでて。 本当に…「動物が死んでる」というそのものの形が見えたときなんですよ。これはすごいわ!気持ち悪いわ!って(笑)。いや、もう、すごすぎて。もう完全にキャパオーバーですね。アメリカみたいだ!って。 とにかくびっくりしました。化石って石じゃないですか。石が地面から出てくる、無機物から無機物が出てくる、アタマでは分かっているんですけど。でも丹波の化石を見た時に「生きてた動物が、ここで死んでる」ってのが分かるんですよね。それがすごいというか…別の言い方をすれば生々しすぎて「気持ち悪かった」んですね。それぐらいリアルだった。 やっぱりあれは絵としてすばらしいですよね。バラバラではなくつながって「恐竜でした」という状態で出てきたので。とにかくすごい現場に居合わせることができたので、感動しました。

  • 太古の生きもの館
  • ちーたんの館
  • 元気村かみくげ
  • 篠山チルドレンズミュージアム
  • 人と自然の博物館

当フィールドミュージアムはエリア全体および上記の主な関連施設や協力団体によって構成されています。

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